見出し画像

【考察】よく言われる「詩は売れない」について

詩は売れない、という。そんなことをふと思い出し検索した。別に詩人になるわけでもないのに、ちょっと気になった。


まずはnoteの中から。

結論として出しているのは文章の長さ。その長さが中途半端なのだという。最初に比較の対象にあがったのは映画。物語との比較で、映画はこの映画の効果を期待して消費している。確かに売るときにはジャンル分けがあり、こういう物語というあらすじ、キャッチコピーに宣伝などをみて、この物語のおもしろさの効果を期待して手に出すのはわかる。それをわかりやすく教えてくれる映画に対して、詩は教えてくれない。詩は文章が短すぎて宣伝に向かない。かといって、時間のない現代社会においては長すぎるという。

長さ、というのは考察ポイントとして好き。それをやるならば、同じ文字表現である小説との比較でも同じなのだろうか。同じ紙面媒体での表現であり、出版物の中で一番売れているマンガとの比較はどうだろうか。長すぎる、というところでは、これは短歌や俳句の形式表現との比較は。(たぶん、詩よりも短い短歌のほうが売れているのでは)

まとめると、わかりにくいから売れないのではないか、と言っているようだ。それはそうだと思う。


次ははてなブログから。

詩が売れなくなったのは、詩をつまらなくさせたから、だという。これはなかなか強め。ここではまず紙面のデザインに言及。デザインとして魅力がない。そして、高齢男性に寄りすぎている。女性詩人の扱いについても書いてある。時代に反応した人の詩が活躍できていない。

詩が売れないのは「わからない」からだと思っていたが、じつは「つまらない」から、という結論にたどり着いたようだ。おもしろければ、わからなくてもいい、という。そして、もっと多様性も持ったほうがよい、ということで締められている。

つまらない、というのもキーワードだ。

「わからない」「つまらない」

なんてことでしょう。2大要素を獲得されております。

この2点について。

これは表現に特化すればするほど、そちら側寄りになってしまう。それは、表現は自分のためにすることであり、紙面媒体の表現の中では詩が一番表現寄り。相手のためではなく、自分のため。表現の反対はデザイン。デザインは相手のため。

売れる、というのは、相手に近いほうが売れる。消費者・利用者のことを考えて商売している人のほうが売れている。

マンガは読者に寄り添って描かれている。おもしろいは大前提。しかも絵はわかりやすい。自分の表現したことや描きたいことはあっても、読者あってのマンガ。しかも、文字だけのものよりも読む労力が少ない。楽である。

相手のことを考えているのだから、結果的にそうなる。

それでは文字世界の中で考えても、たとえば、小説でも、エンターテイメントのほうが純文学よりも売れる。娯楽性の高いほうが売れやすい。ストーリーがきちんとあって、純文学よりも読むのが楽。そして、純文学と詩を比較すると、まだ純文学のほうがわかりやすいかもしれない。おもしろさもある。短歌と比較した場合、短歌は形式が決まっていて、とっつきやすい。ツイッターとの相性もよく、あのリズムでなんでも読ませてしまう。詩よりも間口が広い。手軽さがある。詩は自由がゆえに難しさがある。そして、直訳できない難しさがある。

時代や技術などの社会環境の影響もあるし、その時代の価値観によって左右もされるだろう。わかりやすさや手軽さが求められると、謎の物体の詩はさらに難しい立場に。

そもそも、売りにくい存在だったのだ。昭和のころはライバルが少なかった。今はライバルが多すぎる。残った時間を何に使うか。詩に選択肢はあるだろうか。


この個性の塊である詩。でも、表現寄りの存在が相手側に脳を使って理解する前に心にショートカットして届いてしまう。そんなことができてしまう場合がある。読み手がその表現物との相性がよく、直接届いてしまう詩と出会ってしまった場合の感覚というのは代えがたいものがある。

児童文学作家のミヒャエル・エンデは芸術について以下のように言っている。

「証明など必要がなく、直接にわかること」

表現とは感じること。表出したものを通して、表出していないものを感じること。芸術に関しては専門ではないので検索で見つけてきたものを参考程度に置いておく。大学の先生がWEBに残したものです。


わかりやすい詩もあれば、わかりにくい詩もある。けれど、どちらも何等かの感覚が反応しているのならば、それはその人にとって印象に残る存在となるだろう。


それでは、次はプロの方々を見てみる。

谷川さんにとって詩とはどういう存在なのか語られている。前々から思っていたのは、短い文を使う人たちは、言葉の「意味」と距離を取りたがること。

私はどちらかというと、素人なりに散文や短編・中編小説などを中心に書いてきたので、意味という存在は大切な存在だった。意味や理由なくしては成立しないくらい。たとえば、意味のない長編10万文字以上の文章を読むことなんてできないよ。

けれど、最近は意味という存在が重くなっている。もっと手軽に文章や言葉を扱いたいと思った。

感覚的にはいままでは重い料理を食べたので、軽くてさっぱりしたものを食べたくなった、ということなので、短い文・言葉と向き合っている詩人・歌人・俳人とはスタンスが違うのだけれども、最近になってようやく、意味が場合によっては重く、余計で、横に置きたくなる場合もあると知った。


谷川さんは詩についてこうのように語っています。

僕は詩は基本的に私的な書き物だと思っています。

やはり、自分のためのものだと言っています。


これは現代ビジネスの記事。タイトルのつかみが、最果さんっぽい。

今まで向き合ってきた「言葉」がどういう存在なのか。以下、引用。

言葉というのは、辞書に書かれている「意味」だけが詰まっているのではないし、その言葉を発信した人の「意図」だけで動き出すものでもない。言葉を読むということは、そこに詰まった数多の意識にアクセスしていくことでもあって、言葉を書くということは、そうした意識に読み手をつなげてしまう、ということであるはずだ。
 だから、「伝える」ためだけに言葉を抑制することが不自然に見える。私が、Web日記で言葉が自分をはみ出ていくことを嬉しいと思ったのも、それが言葉として自然だったからだろう。コントロールが効かなくて、人の心をぞわぞわとさせる。それが、言葉の本来の姿。伝える側の意図なんて、無視して動き出すもの。見る側が予想する「意味」なんてはみ出していってしまうもの。それが私にとっての言葉だ、だから、言葉が好きだったんだ。


こちらも現代ビジネスから。歌人との対談。

言葉という存在、意味については、「言葉は意味の汚染を受ける」のページに載せられている。以下、引用。

穂村 最果さんとは以前にも「ユリイカ」(2016年8月号)で対談しているんだけど、読み返したらそのとき僕は、「言葉は意味の汚染を受ける」と言っていた。言葉は表現のための専用ツールじゃないから、どうしても現実の似姿として読まれてしまう。言葉が意味の重力から自由になり切れないことをすごく残念に思っていて、音楽のようだったらいいなという素朴な憧れがあったんです。でも谷川俊太郎さんは、そこが言葉のいいところでもあると言っている。ほぼ同じニュアンスで最果さんも、おもしろい言い方をしていたよ。


まず、言葉は情報伝達のために生まれた、ということ。そこに含まれる情報は最低限の情報だ。最低限の意味だけ。もし、言葉でより立体的な情報にするならば言葉を重ねて説明することになる。このメリットは情報伝達がしやすく、拡散しやすい。誰でもコピーしやすい。デメリットは最低限の情報だけなので、人によってさまざまなことを想像するし、複雑なことを伝えるには情報量を多くしなければならない。そもそも、言葉は伝達手段としてデザインされた存在であり、表現のツールとしてあるわけではなかった。言葉の存在は人間にとって大きいし、より多くの知識を共有し、さらに発展することに寄与しただろう。わからないものを理解するうえで言葉の情報や意味を固定してそれをステップにして新たな発見をする。

(デメリットとして、人によってさまざまなことを想像する、というのは、情報伝達ツールとしてではなく、表現としてみればメリットでもある。読む人によって、それぞれの世界が生み出されるのだから)

そんな言葉は表現の手段として使用する場合、小説などの長い文章にとっては使いやすいかもしれない。その機能を十分に生かすことができるだろう。言葉を重ねることによって、読者の中で様々な場面を想像し、時間が流れ、体験をして、心を動かされることだろう。

けれど、短い文・言葉を使う人たちにとっては、言葉の意味の存在が大きい。意味に振り回されてしまう。小説などの長い文章は、ひとつひとつの言葉は世界の背景みたいなもので、そのひとつがあれこれと変わったところで、全体のゆがみにはつながらない。けれど、短い文の世界ではその意味がその世界を大きく変えてしまう。ひとつの言葉は人によってさまざまなことを想像する。言葉は時代によっても捉え方が変わる。言葉の意味の存在が大きすぎる。

言葉の意味をまったく無味無臭にすることは難しいだろう。意味を最低限にして、かつ、表現として感じる存在とするにはどうしたらいいのだろうか。

直訳できない組み合わせをすることによって、頭で理解するよりも感覚的な存在にしているのではないだろうか。けれど、それが世間的には「わからない」になってしまう。

情報伝達ツールの言葉を使ってその詩と向き合うと、情報が伝わってこない、というわけだ。なので「わからない」。

アートの世界だって、基本はわからない世界だらけだ。それは、表現者の個性を通して現れたそれぞれの世界であって、もし、自分の中で反応するものがあれば、じっくりと向き合ってその世界を楽しむんだ。もちろん、その世界が作られた背景、技術、系譜などを知ることよって別の楽しみ方はできるけれど、その世界と出会ったとき、まずはよくわからないけど、なにかある、と向き合ってじっと見つめるところから始める。例えば、絵や彫刻や現代美術などなどこういった世界は、わからなくても見ていられたり体験できたりして、感覚的なリターンがある。

けれど、文字の世界は文字だけなので、「わからない」で片づけられてしまうとそこで終了だ。でも、これはどうすることもできない。しかも、だからといって、表現物に説明書を添付して、これはこういう意味でこういうことを表現してこういう存在なんだ、ということをしてしまうのであれば、表現手法を取らずに別の手段で伝えればよい。(販売や宣伝のために興味を持ってもらう手段として、少しならばいいかもしれないけれど、作品に張り付けるのは意味がない、と思っている)

であるならば、「つまらない」を解消するしかない。

どうすればいいかって。そこまでは考えていないよ。各々が考えて実行してとしか言いようがない。まずは楽しむことじゃないかな。

ちなみに、売れるというのは、いい商品、いい販売、いい宣伝だってさ。いい商品があったって売らなければ売れない。売ったって知らなければだれも買わない。ちょうどさっきに観たカンブリア宮殿の北海道物産展の回で言ってた。

詩は情報ではなく、世界だ。その世界を散歩するように感じられれば、また違ったように見えるはず。詩に対してはそれぞれの見方があると思うが、以下に引用して今回は終わろうと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?