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キューバの夜は暗くて不安だった。

「キューバに何故来たの?」
飛行機の中で、乗り合わせた人達に訊ねると異口同音にこう話す。
「良くも悪くもこれから変わってしまう国だから」

キューバとアメリカの因縁は深い。
1952年、キューバで軍事クーデターが起こる。
発足したバティスタ政権はアメリカ政府、アメリカ企業に利権を強く与えて、自らの私服を肥やしていった。
アメリカ人の移住も増え、アメリカマフィアによるカジノホテルも建設が続々と進んでいった。
キューバ国民の経済状況は良くなかった。
当時キューバの主要産業は、砂糖産業だったが、
一部の大地主のみが潤い、多くの国民は土地を奪われ苦しい生活を余儀なくされていた。

フィデロ・カストロは裕福な農場主の息子だ。
搾取する側として育ちながら、搾取される側を目の当たりにしていた。
1959年、彼はキューバ革命を果たす。
フィデロは、アメリカとの良好な関係を求めていたし、キューバの発展に必要な隣国であることに変わりはなかった。
ところが、アメリカはこれまでの利権を奪われることを良しとせず、フィデロの社会主義的な富の再分配を忌避する。
フィデロは、アメリカに対抗しうる力を持ったソ連を頼らざるを得なくなり、いよいよ社会主義国の色が濃くなった。
その結果、アメリカ産業の持っていた土地やホテルは全て国有となり、アメリカ人は国外へ退去。
アメリカの当時の車や資財がキューバに残されたまま、国交断絶となった。
ソ連や中国との国交も潤沢とは言えず、
結果アメリカ人が残した車を日常修理しながらうまく使ったり、ホテルもそのまま利用したりしつつ、
建物の改装をする余裕はないため1960年代から町並みは時が止まっていた。

それからは随分長い。
キューバ危機や、ソ連崩壊を経た後、2015年にバラク・オバマがテロ支援国家の指定を解除した。
アメリカとキューバの国交は回復した。

65年余、時が流れずに停滞していた国が一気に動き出そうとしている。
「良くも悪くも変わっていく国」の由来はここにある。

カナダからハバナ空港に降り立ったのは夜の22:00を回っていた。
入国審査を通り、トイレに向かうと空港のトイレに便座がない。便座が壊れたとて直さないことがほとんどで、便座なしはキューバでは結構あるらしい。

飛行機に預けていた荷物の受け取りは、かなり時間がかかる。
これはあくまで推測だがきっと一つ一つ入国に際しても検査機を通しているのだろう。
日本や一般的な諸外国では、次から次へと荷物が流れてくるが、一つ一つが出てくるのが異常に長い。
荷物を受け取るまで、1時間近く待つことになった。
空港を出て、換金をする。
キューバの通貨は二種類ある。
観光客が使う通貨はCUC(クック)と言われていて、1CUCおよそ130円近く。
現地人が使う通貨は、CUP(クップ)と言うもので、
20〜25CUPで1CUCになる。
なので、1CUPは、5円か6円くらい。
殆どのお店にCUCの値段とCUPの値段が並列して書いてあるので、CUCだけあれば問題ない。

空港前にはタクシーが結構止まっている。その中でも、危なくなさそうなおじさん運転手を選び、
ホテルの名前を告げて、幾らかを訪ねる。
キューバのタクシーにはメーターがない。
あらかじめ金額を確認しておくことが重要だ。
まだ慣れていない我々は言い値のままでホテルに向かった。
30分くらいでホテルに到着。
チェックインを済ませて、夜中でも食事ができる場所はないかと訪ねると、24時間営業のバーが近くにあると言う。
簡単なサンドイッチとキューバと言えばのモヒートで乾杯。

モヒート作ってくれるキューバ人。
初めてきちんと会話したキューバ人だった。スペイン語わからないけど。

部屋に戻りシャワーを浴びる。
お湯は出ない。たまにはそんな日もあるだろう。
我慢をして冷水で体を洗い、ベットに倒れこんだ。

キューバ旅行が始まった。

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