スタンドバイミー函館⑥「おじさん達と十五号台風」

おじさん達と十五号台風

僕は小学五年生、函館湯の川温泉のひとつ手前の駒場町に住んでいる。
パチンコ屋は一軒もないが、競輪場と競馬場がある地域である。父は国鉄職員である、親戚のおじさん達が時々やって来る。
「山のおじさん」    
おじさんは、函館の奥地、鉄山に住んでいる。
おばさんと一緒に、年に一、二度やって来る。中肉中背で、あご一面にひげを生やしている。家に来ても特に話すこともなく、手持ちぶささの様子で、新聞を読んだり、タバコを吸っている。おばさんは目を細めて、     「忠夫さん大きくなったね」
あれこれ話しかけてくる。早目の夕食の時、
「今フキが丁度取り頃だ」の情報を聞き、
父は「ようし忠夫、一緒にフキ取りに行くか」
「うん、行く、行く」

晴れた日曜日、山のおじさんの近くの山に、フキ取りに行った。
おじさんと私、父と妹が組んで、沢に入り込んだ。
鎌でフキを取り、葉も切り落として、かごに入れ持って歩く、沢にはフキが沢山生えている。斜面には様々な木も生い茂り、時々おじさんの姿が、見えなくなることもあった。かごいっぱいになり、元の場所に戻りかけていると、父が慌てて、
「知子とはぐれた、見つからない」
と、切迫した顔で、おじさんに話して、
「知子、知子、知子」 
と呼びながら、また奥に入って行った。

私も探そうと、追いかけようとしたが、山のおじさんに         「お前は、ここに動かないでいなさい」
と言われ、大きな木の根元で待った。
どれくらいかな、そう長い時間ではなかったと思う、ドキドキしながら待っていた。しばらくして、山のおじさんと父が、妹を連れて戻って来た。妹は半べソであった。

「おとうさんたら、居なくなるんだから」
と、口をへの字に曲げて怒っていた。沢が入り組んで、父は妹を少し待たせた沢と、違う沢に入り込んでしまったらしい。沢を抜け開けた場所に出ると、おじさんは私たちの体を点検し始めた。
「ほら、いた、いた、ダニだ」
首筋に血を吸ったダニを、二匹も取ってもらった。
妹も一匹取ってもらった。胆の冷えたこともあったが、沢山のフキをお土産に持って帰宅した。
父は「知子が見えなくなり、あの時は本当に焦った」と話す。
母は「知子、怖かったでしょう。しょうがないお父さんね、ねえ知子」  と、頭や顔を何度も撫でていた。
妹は母にしがみついて、その時の状況を訴えていた。

「満州のおじさん」
私たち子どもは満州のおじさん、満州のおじさんと呼んでいるが、満州の話は聞いたことはなかった。
小柄で赤ら顔でやせている。山のおじさんと同じように無口で、ただ父とお酒を飲むと、赤い顔がさらに赤銅色に変わり、ボソボソと話している、親戚の冬子おばさんに、満州のおじさんの事を聞くと、           「本人は自身の事は話さないので、おばさんもよく分からないが、若い頃満州に渡った。何をやっていたか分からないが、帰ってから、騙されて、タコ部屋に入ったらしいよ」
「どうしてタコと言うの」
「そうだね、そう言えば、おばさんが小さいころ、腰に腰巻のような赤い布を巻いて、作業していた人達を見たことがあるの、それで、タコと言ったのではないかな」 
「へー、それでいったんタコ部屋に入ると、なかなか抜けられないと、聞いているけど、おじさんはどうして抜けることが出来たの」
「普段は逃げられないけど、冬に川が凍り、その川を走ってにげたの」  と言っていたが、それはアンクルトムの話とおなじである。

実際はどうだったんだろう。
近所にも、満州からの引揚者の家族もいた。
満州の話や、本当にタコ部屋に入っていたなら、その話も元気な時に、聞いていればと思った。 
「洗濯屋のおじさん」    
「おーい、いるか」
「おーい、達者でいるか」
大きな声で、元気いっぱいに、玄関をガラガラ開けて入ってくる。
函館の本町で洗濯店を営んでいる、洗濯屋のおじさんである。
大きな体、声もでかい、冬でもシャツ一枚で、汗いっぱいかいてくることもある。
自転車の荷台には、洗濯物を入れる、大きな四角い物入れが積まれている。当時私は小学5年生、一度その自転車のペタルを漕いでみたが、すぐにフラフラになり、乗るのは無理とわかった。家に来てすぐ
「景気がわるいぞ」
「そら、どんどんくべろ、くべろ」
と、ストーブにまきをドンドンほおり込む、
ストーブの鉄板が、真っ赤にならないと治まらない。
我家の暖房はまきストーブである。秋に馬車が丸太を大量に運んでくる。
その丸太を馬車に付けられた大きなノコギリが回転して,三十センチ位にドンドン切っていく。
その後父と私で、ストーブに入る大きさにマサカリで割り、軒下に積んで置くのである。
ただストーブは煙突掃除が大変である。
「さあ、今日は煙突掃除をするぞ」
寒いけれど天気の良い日。父は手拭いでほっかぶりをして、煙突を外し外に出し、長い竹の棒の先に、大きなたわしが付いた、煙突掃除器具を入れて掃除をする。部屋もススが散らからないように、床に新聞紙を敷いて大変である。でもそれを怠ると,ススで煙突が詰まり煙の逆流や、火の粉が舞い上がり、火事の原因になる。

火事と言えば二年前 
「起きて、起きて、早く、早く」
母の緊迫した口調に、たたき起こされた。
母にせかされて外に出ると、昨日薄っすらと積もった一面の雪の中、隣の家から煙が立ち登っている。
火も見える。それが次第に大きくなっていく。母は家の前の雪の積もった畑に、布団を広げ、私たちに、
「ここに居なさい」
と言って、大きな声で
「火事だ、火事だ」「火事だ、火事だ」
と近所中を叫び回った。   

この日父は泊の勤務である.兄弟は一つ違いの妹と二人である。
母の声を聴いて、近所の人たちが不安げにやって来た。
煙と立ち上がる炎を見て、急いで家にひき帰る人、スコップで雪をかける人もいた。私も雪球を作り投げた。
女の人達は私たちの布団の側で燃えるのを見ていた。
寒さは全く感じなかった。
しかし黒い煙と炎がどんどん上がって来る。
「消防に連絡したの」
と母に聞くと、
「隣の高橋さんのおじさんが電話をかけてくれたから」         それでも消防車はまだかまだか、早く早く気持ちが高ぶりながら待っていた。遠くからサイレンの音が聞こえて来た。消防車がきた。
長い時間かからずに鎮火した。
幸いにも我が家にも近所にも延焼することはなかった。
火の元と我家の間には少し畑があり、緩衝地で助かった。燃えたのは火元の小さいお寺で全焼であった。
後で聞いた話では、台所から火が出て、家族で消火に勤めていたようであったが、早い火の回りに、追い付かずにいた。

母は「焦げ臭い」
と臭いでまず飛び起き、隣の煙を見て、私たちをすぐに起こし避難させ、近所に知らせた。隣のお寺は全焼したが、けが人は出さずにすんだ。
焼けたお寺には、燃え残った黒い柱が何本も立っていた。
冬夕方すぐ暗くなる。
崩れた墓石、焼け残った卒塔婆等、死人もけが人も居なかったが、しばらく焼け跡の前を通るのが薄気味悪かった。

あの時の母は狂気のように
「火事だ、火事だ、火事だ」
と叫んでいたのが、今でも耳に残っている。
我が家のストーブの後ろには、赤い銅で出来た、大きな湯沸かし器が付いていて、いつでも湯がシュンシュン沸いていた。
洗濯屋のおじさんは熱いお茶を飲み、冗談を言い、豪快にいつも笑っていた。

台風十五号、通称洞爺丸台風が過ぎ去って半月後、洗濯屋のおじさんが来た。この台風十五号で遭難したのは洞爺丸だけでなく、第十一青函丸、北見丸、十勝丸、日高丸の五隻である。
「亡くなった人は、洞爺丸1155名、第十一青函丸90名、北見丸70名、十勝丸59名、日高丸56名の1430名である。(台風との斗い)より」、すごい風と雨だったのは覚えているが、我家も近所も特段大きな被害はなかった。近所のおばさん達が
「すごい台風だったね」
と話す程度であったが、昼、夕方、次の日と、函館港の被害の様子が伝わるようになった。同級生の父親が亡くなった。

また父は国鉄に勤めていたので、知人が多くいて、あの人も、この人もと、悲報の情報が続々と入った。
また一方乗船予定であったが、勤務の変更で乗らずに済んだ人、乗船したが奇跡的に助かった人等など、悲喜こもごもの話がしばらく続いた。
そのような最中に、あの元気な洗濯屋のおじさんが来て、我々に話すのだった。
「タクシーの運転手が、七重浜の近くで、女の人を乗せた。その女の人が途中で見えなくなり、座席のシートは、海水で濡れていた。」
「港の岸壁で釣りをして、釣った魚の腹から指が一本出てきた。」    「七重浜の近くの海岸で、手袋かと思って、拾い上げたら手首であった」
等などの怪談話である。
何処かで聞いたような話もあり、少し眉唾かと思っていたが、それでもしばらく夜トイレに行くのが怖くなり、魚を食べるのも躊躇した。
「ガンガンガン」「ガンガンガンガーン」
蛍の光のメロディーと共に、大きな銅鑼の音が鳴り響く,出航の合図である。父の出張で母と見送りに来た。
桟橋には大勢の人、色とりどりのテープが握られ、連絡船の人とテープとつながっている。銅鑼の音が一段と高くなり、タラップが外され、桟橋から連絡船が次第に離れていく、テープがどんどん延びる。
そして切れる。いつもの風景であるが、あの事故の後、哀愁と切なさが一層胸に迫った。

その後この青函連絡船で、津軽海峡を幾たび渡ったであろう、東京の大学そして就職、夏休み、冬休みと両親が健在の時、年2回帰って来た。上野から急行で8時間、連絡繊に乗り込むあと4時間で函館だ。
晴れ渡った青い空、穏やかな海、甲板に出るとイルカが数匹、連絡船と平行に速さを競うように泳いでいる。
心地よい爽快な船旅である。
しかしある時は船が海峡半ばで大ゆれになる。
小さな丸窓に波が激しくぶつかる。客室で横になっているが、それでも気持ちが悪くなり「ウッ」と戻しそうになる。
周りでもあちこちでビニールの袋に戻したり、苦しそうにしている人を見かける。でも海峡を抜けると穏やかになっていく。
青森から北海道に向かう連絡船、函館に着く少し前から、大勢の人が乗降口に並びだす。
函館に着いたら、タラップを急いで降り、我先にと一斉に走り出す。これからさらに道内各地に向かう列車に乗るためであり、座席取りである。
大きな荷物を背負ったおばさんも懸命に走る。
私は函館なので得した気分で、ゆったりと甲板で海を眺めている。遠くに見えていた函館山がだんだん近づいてくる。
函館山、連絡船で読む道新、そしてイカ・魚の匂い、          「帰って来た」
と、実感として感じられた。
「はるばる来たぜ函館」の心境である。

東京に出て五十数年、少年時代の一大出来事、洞爺丸遭難を少し調べてみた。あの台風の時、函館と青森両方の港桟橋に、出航真近かな青函連絡船がいた。函館港には洞爺丸、青森港には羊蹄丸である。
青森の羊蹄丸は待機を決断した。
函館の洞爺丸は台風の風や雨が一時的に穏やかになった事もあり就航する。そして遭難。
船長はまさに「天はわれを見捨てたのか」
の思いだったろう。
青森の八甲田山の遭難、新田次郎の「八甲田山死の彷徨」の海難版を思い起させた。その他多くの船舶が遭難した中に、大雪丸や第十二青函丸等が、懸命に激しい波と風と戦い、遭難を免れた船もいた。
ハリウッド映画「タイタニック」が大ヒットして話題を呼んだが、いつか台風十五号洞爺丸遭難を、新たな視点で映画になれば、いや是非映画にしてほしいと願っている。
今洗濯屋のおじさんと、同じストーブの場所で、水割りウイスキーをなめている。ストーブは石油ストーブである。
                   

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