子供の目を見て話せない。

note二回目にして、早速個人的かつどうでもいい話をしようと思う。

僕は前にも話したように、本屋で働いている。その本屋は学校が周りに比較的多いのもあり、客層も家族連れや子供が半分以上を占めている。小学生から高校生まで、年齢層も幅広い。当然、少なからず子供と接する機会もあったりする。

子供が昔からちょっと苦手な話

さて、突然の告白だが、僕は子供がやや苦手である。大嫌いというわけではないので、どうか過剰な反応は控えていただきたい。苦手というより、「怖い」という表現のほうがしっくりくるかもしれない。

なぜ苦手なのか。苦手と公表したからには理由を説明するのが道理であるのは分かっているのだが、申し訳ないことにこの感覚をうまく説明できない。なので、何とか考えや感情を分解していきたい。

前に「子供が苦手」と友人に話したことがあるのだが、その時に言われたことが今でも忘れられないでいる。

いや、自分にも子供だった時代あるでしょ

ちょっと待ってほしい。もしそのセリフに「なんで子供が苦手なんだ?」みたいな疑問が内包されていたんだとしたら、それは本当に暴論である。実際、僕がこう言われた当時も「???」となった記憶がある。とは言ったものの、僕はこういった屁理屈が大好きなので、「じゃあ君は人間だけど、苦手な人間はいないの?」的なことを冗談交じりに言った気がする。

確かに自分にも子供時代は確実に存在した。「どこまでが子供でどこからが大人なのか」みたいな哲学はさておき、それは紛れもない事実である。ただ、さすがに幼少期のすべてを事細かに覚えているわけではない。それに、子供のころの自分と今の自分が全く同じであるかと問われても、自信はない。子供が苦手な理由の一つに「自分の幼少期を思い出して恥ずかしいから」という仮説を立ててみたけれど、上のこともあるのでおそらく違うのだろう。

この友達は「子供もお前も同じ生き物だろう」という意味も込めてああいうことを言ったのだろうが、僕はずっと違和感があった。そこでふと気が付いたことがある。

もしかして僕は、子供と自分とを違う生き物として捉えてしまってるのではないか?


書店で接客中、ブックカバーを文庫に掛けていると、何か視線を感じる。視線を放つほうへチラッと目をやると、そこには接客中の女性の子供であろう女の子が立っていて、じーっと僕のことを見ていた。多分、カバーを掛けているその動きが面白いと感じていたのかもしれない。カバーを掛けなければいけない本があと三冊ほどあったので、次の本に手を伸ばす。するとまた女の子と目があってしまった。あまりにも真剣に見てくるその目は、僕の体を貫いてしまうんじゃないかと錯覚するほどにまっすぐで、少し怖くなってしまう。僕が今「早く帰りたいな~」とか「働きたくないな~」と考えていたのも、この子にはすべて見透かされているかもしれない。帰り際にこちらに手を振ってくれたが、振り返した僕の手はぎこちなかったに違いない。


これは僕が以前体験したことをざっと書いてみたものである。これからもわかるように、まるで別のなにかに出会ったかのように怖がっているのだ。見返してみると、成人した人間が子供相手にビビッているのは少し滑稽で面白い。同じ人間なのに、やはり自分とは切り離して考えてしまっているのがうかがえる。なるほど、苦手意識がある理由はここにありそうだ。

視野が狭くなった」と感じることは、昔に比べたら多くなったと思う。足元のアリなんてもう興味はないし、道端に咲いてる花を見つけてわざわざ立ち止まったりはしない。でもきっと、子供のころだったらもっと目移りしていたんだろう。スケッチブックを持っていろんなものを模写しにいっていた記憶が何となく残っている。僕にはもう見えていないものが、子供には見えている。自分の鈍さをまざまざと見せつけられている感覚にどうしてもなってしまう。あの頃とは別の生き物に自分がなってしまったという恐怖。僕が子供が苦手な理由はそれなのかもしれない。

もう一度書いておくが、これは子供にヘイトを向けたいという意図があって書かれたものではないし、極々個人的な問題なので、あまり気にしないでほしい。

そんな感じで「今日はこんなことを書くか~」と考えながら歯を磨こうと洗面台へ向かう。顔を上げて鏡に映る自分と目が合うと、何か違和感を感じた。よく目を凝らしてみると、眼鏡のふちに何かが挟まっている。

夕飯の焼き鮭のかけらだった。

なぜ今まで気づかなかったのだろうか。自分の視野の狭さに、思わずひとりで笑ってしまった。子供かよ。


書店員A


追記

アイコンとヘッダーを設定してみました。自作です。どうでしょうか。

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