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あたりまえは、あたりまえであってはならないのだ。

<2022年3月に書いていた下書きを掘り起こしました。だからとんでもなく季節外れのNoteです>

人は生きている間に、何度「あたりまえ」について考えて、そしてふと忘れてしまうのだろう。
ここにいる1人の人間が、毎年、いや一年に何回も繰り返し繰り返す考えるのだから、この地球上ではまぁ果てしない回数の思考の積み重ねが行われているわけで…
一度、どんなプロセスで「あたりまえ」を考えるのか統計をとってみたいものだ。

話は脱線したが、特に日本では特に3月というひと月はとても切なく、もどかしく、モヤモヤが蔓延る時間となる。それはいずれやってくると知っているのに、覚悟なんぞできやしない時間なのである。
ご存知の通り、大多数の人のあたりまえが変化したり、それが新しく生まれるシーズンだからである。

なぜだろう、人を送り出すおめでたい日はこれでもかというくらいに空は青く快晴で、今のところ、感情を持っていないと個人的に信じている地球でさえもお祝いをしているかのようだ。雨ではないので、悲しくはないのだろう。

学校でも、バイトでも、毎年毎年たくさんの人を送り出す。そんなこんなで気がついたら、今までお世話になっていた人たちがいなくなっているではないか。
というか、あと一年もしないうちに自分達も送り出される立場になってしまうではないか。

送り出すことが当たり前になっていた自分にとって、送り出されるのははたまた何年振りになるのだろうか。徐々に、その日が近づいていると思うと楽しみでもあり、まだ湧いてこない実感に焦りを覚える。

あたりまえはなぜあたりまえであってはならないのか。それは厳密にはあたりまえは存在しないのではないかと思ったからである。
「おい、何当たり前のことを言っているのだ」と自分の中の自分が言う。
「それって今そう思っているだけで、それが今のあたりまえになっているだけで、またこれをいつか見返した時には何か違うこと考えるだろう?だからあたりまえってのは存在することはないんだよ。」

かっこよく、そして某ニュース番組のコメンテーターをしているT大学のO先生のように言うなれば、あたりまえはアップデートし続けるといったところだろうか。
あたりまえだけではない。思考も、感覚も、自分ではわからない細胞レベルで何事も日々アップデートをしている。年を重ねることは、もしかしたらそういうことなのかもしれない。

節目を迎えるたびに年老いたと思う。これはどうしてもネガティヴなイメージになってしまうが、経験を積み重ねて、アップデートし続けているとマインドセットすれば、案外悪くないことなのかもしれない。
お先真っ暗な世の中。10年後、20年後はどうなっているかも想像はできない。
あと、自分がどうなりたいのか。何がしたくて、今何ができるのか。未来を想像し思考を張り巡らせる中で切羽詰まってしまうことであっという間に時間を消費してしまっていると思う。

時に立ち止まって、あたりまえがあたりまえにならないように。日々のアップデートを確認しながら一歩ずつ進んでいけば、勝手に未来は見えてくると思うんです。何年後かの自分がこれを見たらどう思うのか。楽しみです。



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