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父と鮎釣り


私の父親は若い頃から釣り好きだった。

「好き」のレベルではなく、「バカ」の部類に入ると思う。

幼い頃、「釣りキチ三平」という漫画があり、アニメ化もされたが、父はそのアニメが大好きだった。

普段はプロ野球かプロレスかキックボクシングしか観れない我が家で、子どもの私が楽しみな番組でもあった。

父はアニメを観ながら「この番組は本当に釣りの勉強になるんだ」と普段無口のくせに饒舌に語るのだ。

父の釣りは専ら川釣りである。当時住んでいた埼玉は海がないから当然川なのだが、秩父出身の父は幼い頃から川に親しんできたのだろう。

中でも鮎釣りには特別な思いをもっていた。そろそろ鮎釣りが始まるという頃になると、日常生活でもソワソワしだすのだ。

まずは、「仕掛け」といわれるものをコツコツと作り出す。竿から下の部分にあたるのが仕掛けで、糸やハリ、接着剤を用いて器用にセッティングするのだ。

父は鮎釣りでは専ら「友釣り」を好んだ。縄張りをもつ鮎の習性を利用して、侵入した鮎に体当たりをしてくるとハリにかかるという仕組みだ。

まるで子どもが楽しく工作するように、仕掛けを作る父の手元を見ていると、本当に器用にやるものだと感心した。

「お前もいつか鮎釣りやってみたらいい。友釣りの当たりは他の釣りとはまた違って面白いんだ」

父の友釣りを川岸から眺めることはあったが、結局一緒に川に立つことはなかった。

この仕掛け作りで、ちょっとした事故があった。

小学校の高学年くらいだったか、当時塾に通っていて、いつも母の車で送ってもらっていた。

その日も学校から帰宅し、車で塾に行くはずだったが血相を変えた母が「病院行かなくちゃいけないから!」と父を乗せて出かけてしまった。

その日は塾を休むことになりラッキーだったが、父の身に何が起こったか心配ではあった。

しばらくして2人が帰ってきた。父は何だか苦笑いをしているようだった。

話を聞いてみると、いつものように仕掛け作りをしていたが、接着剤が出ないので覗き込みながら押してしまったところ、目に飛び散ってしまったというのだ。

接着剤は、「ア〇ンなんとか」である。あの強力な威力でなんと、瞼が閉じたままになってしまったのだ。

眼科で無事に外してもらい、眼球にも問題はなかった。その時はみんなでホッと安心したが、後々の笑い話として、家族の中では長い期間利用された。

話は戻るが、鮎釣りの解禁日が近くなると、父はいてもたってもいられなくなる。釣り仲間と釣るポイントをどうするか、ひっきりなしに連絡を取り合っている。

いよいよ明日が解禁日となると、遠足前の子どものように眠れないのだ。母に「握り飯を何個作ってくれ」とか「何時に起こしてくれ」とか注文する。母はたぶん眠ってないだろう。

近所の釣り仲間とまだ暗いうちに出発する。鮎釣りは夏だから、3時とか4時とか、そのくらいだったかもしれない。場所取りが最重要だからだ。

鮎は成魚になるとコケを食べるので、良いコケが付着していそうな岩場のあるポイントが決め手なのだ。それをずっと見極めてこの日を迎えているのだから、遅れをとる訳にはいかない。

あぁやっと出発した、と母も少し落ち着いて、横になろうとした頃に電話が鳴ったようだ。父からで、「鑑札を忘れた。〇〇橋のたもとに持ってきてくれ」

釣りをするには「遊漁料」を管轄する漁協に払わなくてはいけない。父は日釣り券ではなく、年間の券を持っていた。それを忘れたのか、鮎釣り用の券か定かではないが、あれ程準備していたのに忘れたのだ。受験に行くなら「受験票」を忘れるレベルだろう。

私と姉も起こされ、母と3人で暗い中、橋のたもとを目指した。母はまだ免許取り立てである。若葉マークを父のクラウンに貼り付け、出発した。

当時はマニュアルで免許を取るのが普通なので、母も操作はできるが、我々子どもにしたら心許ない。父はダンプやトラックの運転手だったから、心配なんかしたことないが、母の運転は絶叫系の乗り物と同じだ。

「あーセンターラインに寄りすぎてるよ!」
姉が注意すると、「わかってる!ちょっと集中してるんだから黙ってて!」
生きた心地がしない。幸いまだ暗いうちなので対向車は少ない。

身長が150cmあるかないかの母なので、シートにクッションを置いているが、それでもハンドルの隙間から前を見てるんじゃないかと思うほど小さい。

指定された近くまで来ているようだが、暗いのでよくわからない。河原の道を進んでいるようだ。当時は携帯なんかないから父に連絡も取れない。

電気が付いている家が前方にあった。こんな時間に無礼なのは承知で、母が場所を聞きに行った。
親切に教えていただき、なんとか橋に到着した。

父がそこにいた。「何してたんだ?遅いぞ」
そう言って遊漁券を手に走っていった。
3人とも呆然とその後ろ姿を見送るしかなかった。

帰りは明るいから道はわかる。しかし、問題はまだあった。来る時は必死で運転してきた母だったが、帰りは無性に怖くなってきたようだ。
免許を取って、こんなに遠出をしたことがないのだから。

「お母さん、ゆっくり帰ろうよ。急ぐことないんだからさ。」姉が母の緊張を感じ声をかけた。

交通量も当然増えている。慎重に母は運転した。しかし、道を間違えたようだった。
「さっきの道を曲がるはずだったかも。」そう言って、どこかでUターンすると言い出した。

今の私だったら、左側に広い場所があればそこでUターンするだろうし、どこかで右折して、回ってきてもよいと思うだろう。

しかし、母は何を考えたのか、片側1車線の道路でUターンしようとしたのだ。当然一度にハンドルは切れるわけがない。それにクラウンが1回くらいの切り返しでUターンなどできるはずがない。
それも若葉マーク。

案の定、車はエンストした。マニュアル操作で何度も切り返しを母ができるはずはない。
クラウンが道を完全に通せんぼしている状態になった。焦れば焦るほどエンジンはかからないし、エンストは続く。

私と姉は「あぁ~~~」と叫びながら、後部座席で足元に身を屈めながら、頭を抱えていた。
ちらっと窓を見ると、ダンプの運ちゃんが苦笑いをしていた。

やっとのことでUターンできたところで、体をあげると、両側ともちょっとした渋滞だった。田舎の道だから、そこまでの車はないにしても、本当に冷や汗ものの体験だった。

動き出した母は「プワァン」とクラクションを鳴らした。迷惑かけてすみませんという意味だろうが、さっきまで焦りまくっていた若葉マークの母がクラクションを鳴らしたのが滑稽だった。小さい母に不釣り合いな大きなクラクションの音だった。

釣りから帰宅した父は、1連の出来事を聞いて笑っていた。忘れ物した張本人が1番笑っていた。


父と一緒に鮎釣りすることはなかった。
なんでも母に内緒で高価な鮎釣り竿を買っていたらしい。昔は竹で出来ていて重かったが、今は材質もよくなり、軽量化が進んでいるようだ。

「お前にやるよ」と言っていたが、私が持っていても宝の持ち腐れになってしまうから、釣りをする父の弟への形見分けにした。

残った高価な竿は棺の中に入れてあげた。
楽になってまた、川を飛び回るように釣りをするだろうから。

父が亡くなった日は、鮎釣りが解禁される
6月1日だった。
待ってました、とばかりに激しい川の流れに
立ち向かう姿が目に浮かんだ。





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