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無意識に人を傷つけるASD女が「人を褒めるBAR」を開催して思ったこと

私は、自分にも他人にも悪い意味で完璧主義のところがある。
だから、人の悪いところを見つけると無意識のうちに指摘してしまい、改善を求めてしまっていた。

「あなたはこれをやればもっと良くなる」
「なぜ、〇〇をやらないのか」

やらないにはやらないなりの理由があったりするわけで、それを必要以上に詰めるのは、おせっかい通り越して嫌がらせ。でも自分が正しいと思っているとそれに気がつかない。

おまけにASD特有の「人の感情を読み取れない」という特性まで完備しているので、ちょっと注意するつもりがナイフを深く深く突き刺してしまっていたりする。

「人に注意する」「欠点を指摘する」と言うことが必ずしも悪いことではないが、無意識化でそれをやるのは、「無意識に人をディスる方向に、話を展開している」と言うことだ。それはまずい。

「人の欠点を見つけるのではなく、人の良いところに目が向けられる人間になりたい」
「人を褒める練習がしたい」
そんな思いで開催したのが、「たこちゃんが人を褒めるBAR」だった。

人を褒めるBARとは

名古屋栄には、旅BAR夢portという「世界一友達ができるBAR」がある。

その名の通り、人との繋がりを大切にしているBARで、1日店長制度を設けて常連がイベントを行う珍しい形式だ。いわゆるイベントバーというやつ。

人を褒めるBARは「私(たこ)が来たお客さんを褒めるだけ」という他の常連のイベントに比べて手抜き極まりないイベントなのだけど、意外と多くのお客さんに来てもらったと同時に私もいくつか発見があった。

「褒める」って難しい

イベントを終えて思うのは「人を褒めるってめちゃくちゃ難しい」と言うこと。

下手に容姿を褒めるのは地雷を踏みかねないし、かといって中身を褒めるにはある程度その人の人となりを知る必要がある。

そして、自分の中に「褒める語彙」がとにかく少ないのがわかった。
言葉が出てこないのだ。

その結果「いいっすねー」「すごい」「偉い」を多用してしまった。

私だけではなく、社会全体が「褒める言葉」が少ないように感じる。
人を貶す言葉はネット上にたくさん転がっているのに、人を褒めるとなると「尊い」「可愛い」「優しい」とか語彙が途端に少なくなっていないだろうか?

少し調べてみると日本人は「ほめ」の使用に消極的な一族だと言う研究結果があった。

英語は「ほめ」によって相手に敬意を表すのに対して、日本語は「敬語や謙遜」など「相手から距離をとる」ことで敬意を表すということらしい。

なるほどーーー。そもそも日本人という民族が「褒める」と言うことをコミュニケーションでそこまで重要視できていないのかもしれない。

そんなわけで、元々日本語の作りが褒めるのに向いていない上、私の性格もあってイベントを通して「褒めること」の難しさをことごとく感じた。

正論を言う気持ちよさ

イベントをやってもう1つ思ったのが、「正論を言うのは気持ちいい」と言うこと。そこに人が傷つくとか傷つかないとかはあまり関係ないように思う。

今回のイベントでも一部正論をかましてしまった場面がある。普段から親しくしている友人にたいして、新しい趣味を始めたらいいのではという話題になったのだが、あまりにも全ての物事にネガティブだったので、少し前向きに検討しろと言った注意をしてしまった。

それ自体は何でことのない会話なのだけど、「褒める」に対して、「注意する」「叱る」ということになると言葉がスルスル出てくるのだ。

「褒める」ということをテーマにしているのに、今日はとりあえずみんなを労おうと決めているのに、言葉は止めどなく頭の中に溢れてくる。

自分が正しいと思っている事で、相手の優位に立てると止められなくなっている自分を実感した。

その行為が正しいかどうかは別にして、「正論を言うと私は気持ちよくなってしまう。」ということを自覚しておくべきだと感じた。

褒めるBAR今後の予定

予想以上に沢山の人に来てもらた今回のイベント。色々自分も勉強させてもらったので、また開催するかもしれない。

開催する時はTwitterで告知するのでよかったら遊びに来てください。




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