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【随筆】諏訪のモリヤとは一体何者なのか? 謎は深まるばかり。

黒耀石を巡る諏訪の旅。前回まではこちら。

再び洩矢(モリヤ)神社へ

 杖突街道沿いの守屋神社とは別に、諏訪湖の西側、岡谷市にも洩矢(モリヤ)神社がある。こちらは字が異なる。
 諏訪湖から天竜川への入口には、釜口水門がある。諏訪湖の水はあまりきれいではないと聞いていたが、実際みるとかなり濁った色だった。昔はもっときれいだったらしいが、諏訪湖の周りに工場が出来始めたころから、その経済的恩恵と引き換えに環境問題が始まったのだろう。

 その釜口水門の近くに洩矢神社はある。こちらはタケミナカタが入る前の土着の神としていた「洩矢」を祀る神社だ。
 神社のご由緒を読むと、洩矢を始めとした土着の神々(有力者)が元々諏訪にはおり、後から出雲地方出身のタケミナカタ一族がやってきた。そして、天竜川をはさみ対峙し、戦いの結果土着の洩矢を服従させたと言う伝承がある。
 タイトルの写真に洩矢神社の石柱が映っており、この下部に柏の葉の紋が見えるが、これが洩矢一族のものだそうだ。
 諏訪大社の家紋は梶の葉であり、梶も柏も神事に使う幣(布)に使われていたものであり、神事を司る一族の家紋なのかもしれない。

丸に柏の家紋がくっきりと刻まれていた

 天竜川をはさみ、この洩矢神社と対岸の藤島神社で対峙した洩矢とタケミナカタ。守矢は鉄の輪、そしてタケミナカタは藤の枝で追い払ったという。
この物語が象徴するものは何だろうか。

由緒略記で洩矢の神についての物語が分かる

タケミナカタを祀る一族としてモリヤ一族は奉仕した?

 この戦いののち、タケミナカタ側は、征服したモリヤ一族を皆殺しにしたりはせず、神事等を司る一族として取り込み、近年まで続いていたという。それが昨年訪れた神長官守矢史料館の地に住み続けたモリヤ氏だ。

 諏訪大社の生神である大祝(おおほうり)は、このモリヤ一族の童子が務めることになっていたという。ただ、今はこの大祝はいない。
 明治の神仏判然令や廃仏毀釈などの宗教的混乱の中で失われ、今は記録の中でしか残されていないようだ。

厳かに立つ洩矢神社 ただこの場所に移転しており、旧社地は別の場所にあるようだ
洩矢神社にも諏訪大社と同じく御柱祭がある

 私はこの伝説が残るこの神社を訪れてみたかった。
 諏訪に関しては謎が多いが、特にこのモリヤの神については様々な説がある。物部守屋という実在の豪族を祀っているところもあるが、少なくともこの洩矢は物部ではない。
 また、タケミナカタは出雲から来たと言われているが、一方で出雲にタケミナカタの痕跡がないと聞く。まるでとってつけたような話なのだ。
 そして、このご由緒にあった話も、中世の仏僧の手によるもののようだ。
 様々な思惑が混交し、混沌とした諏訪の神であるが、時系列に追ってみると案外単純かもしれないと思った。

1 旧石器~縄文
 日本における黒耀石の古里であり、世界的にみても有数の黒曜石産地であるこの地域には、世界中からあらゆる民族が集まったと思われる。それゆえに、世界的にこの時代信仰されていた竜蛇信仰と猪紋様が土器に記されている。また、この時代人々は高い山や姿の良い山を自然と崇拝していた。
 守屋山は、「森山」と呼ばれていた時期があるらしい。森山がモリヤといつしかなったのかもしれない。

2 古代
 縄文~弥生時代にかけて諏訪一帯は、独立勢力を保ちその代表がモリヤ一族だったのではないか。大和朝廷は、強力な力を持つ諏訪勢力に対して真っ向勝負をリスクを冒さなかった。
 その勢力の力の根源は、モリヤ一族が鉄器を扱うことができたことによるのではないか。中世になるが洩矢神社のご由緒には、洩矢神が鉄の輪を以て戦ったとの記述がある。また諏訪大社、そして洩矢神社の家紋は梶・柏だが梶と柏は似ており、カシ・ワは鍛冶に通じるのではないか。
 タケミナカタも出雲にはその痕跡はないとはいえ、もし現実の戦いを象徴しているのであれば、鉄器を扱うことが出来る一族だったのではと考えられる。鉄と鉄の戦いが古代にあったのだ。

3 中世
 朝廷は、徐々に宗教面や外交面から切り崩し、ついには祭祀のコントロール権を朝廷は得るに至った。仏教勢力が力を増し、古来の神道的な神々は仏教保護の神になるか、または悪魔となってしまった。
 この段階で、モリヤ一族はタケミナカタに退治される悪魔、もしくはタケミナカタの神に使える一族とされてしまった。
 また、この仏教の敵という立場が、仏教導入に反対して敗れた物部守屋と同一視され混交したと思う。
 とはいえ軍事を司り、古事記におけるタケミナカタと同じく敗北を喫した物部守屋の運命は、諏訪の人々の心象に溶け込んだのではないか。

タケミナカタの本来の姿は何であろうか

 タケは美称であるといわれている。偉大な~のような意味だ。ミナは御名か、もしくは水であろうか。そしてカタは「方」か「潟」。潟はみずうみだ。私はタケミナカタは、偉大な名を持つ方もしくは、偉大な水の潟であるとおもう。
 タケミナカタの神は、今でこそ古事記でタケミカヅチの神に敗れ、諏訪の地に逃げ去った神として知られているが、古事記が巷間に広まるのは、本居宣長が古事記伝を記し、研究されるようになった江戸時代以降である。
 それまでは、タケミナカタの神は軍神として各地で信仰されていた。
 天皇家の私家版である古事記にのみ記されたタケミナカタの敗北は、タケミナカタが朝廷の敵として見られていたことを暗示している。
 諏訪は朝廷にまつろわぬ一族の住むところであった。

神社内の摂社、末社にも小さな四方の御柱がある

 古来龍蛇信仰があった地で、守屋山は崇拝対象であった。同時に人々の生活を支える諏訪湖に対する自然信仰もあったと思われる。
 その中で立ち上がってきたのがタケミナカタの神だ。
 タケミナカタには、諏訪湖や竜の姿、そして仏教勢力に敗れた戦を司る物部守屋がダブって見える。そしてモリヤ一族は、守屋山(森山)を崇拝し、元々この地を支配していた人々だったのだろうと思う。

 もちろんこれは私が今回の旅の中で想像した物語みたいなものだ。だがこうして想像を掻き立てる狂おしいほどの魅力がある。
 諏訪をめぐるミステリーは本当に面白い。

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