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【詩の感想】花を知るには花になるのだ

当noteでは、美しい日本語について独自の定義をしています。
そのため、「詩」を広義の意味で捉えています。

花を知るには花になるのだ。
一片の花となりきって、花となって花を開く。
花となって太陽の光を浴び、花となって雨に打ち濡れる。
これができてはじめて、花が私に語りかけてくる。
その時、私は花のいっさいの神秘を知る。
花のいっさいのよろこびと苦しみを知る。

『禅と精神分析』 鈴木大拙
エーリッヒ・フロム
リチャード・デマルティーノ

まず読んで思ったのは、
禅の考え方を表している
散文詩のようだな、ということ。

普段、私たちは
花と自分は別モノとして
捉えています。

なので、花になるとか、
花になりきるといわれると、

戸惑いや違和感を
感じやすいんじゃないかなと
思います。

たとえば、

「花にはなれないのに、
花になるってどういうこと?」

「人と花は異なるし」

「花になりきるの?それとも、
花になるの?どっち??」

とか。

ただ、こんなふうに
違和感を感じるのは

「これは、花というもの」
「これは、自分というもの」

というように
世界を言葉(知識)で
区切っているから。

でも、もしも言葉というものを
知らなかったとしたら。
 
花と自分を区切ることはできず、
繋がっているものとして
捉えるのではないでしょうか?

そんなふうに考えると、
本来は繋がっている世界を
言葉で整理しているわけですから、

私たちが見ている世界は
まやかし、とも
言えるかもしれません。

一方で、
花も自分も繋がっている
世界というのは

日本人だからこそ
イメージしやすいところが
あるんじゃないかなとも思います。

とはいえ、
現に私たちが生きているのは
まやかしの世界。

そこで日常をおくり、
いろいろ思い悩み、

その苦しみから抜けようと
様々なことに取り組んでいます。

結果、糸口を見いだせることも
あります。

でも、苦しみから本当の意味で
抜けるには
(問題自体を解消するには)、

「花となりきって、花となる」

つまり、私たちは
実際に花になることはできないけれども、

花になろうとすることで、
繋がっていたころの世界を
思い出す。

すると、

視界を曇らせていたものに気づき、
本当の意味で問題が問題では
なくなるのかなと。

そして、そのときに
いっさいのよろこびと
苦しみを知る。

この場合のよろこびと苦しみは、
今私たちが想像する

どのよろこびとも
どの苦しみとも

異なるものだと思います。

もっと穏やかで、
苦しみすらも昇華された
「くるしみ」なのかなと。

この鈴木大拙の言葉は、
時間、成果、評価に
強力に追われ続けている現代人に、

ある種の閉塞感を
越えるための糸口を示した
メッセージであるような。

そんなふうに受け取りました。

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