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#2 陰キャが陰キャを自称するのはなぜか

こんなことをよく言われる。

「陰キャか陽キャかなんて、気にするのは陰キャだけ」

「そんなの気にしているから陰キャなんだよ」 

紛れもない事実だ。ただ、そう言われて素直に改善できる人間はそもそも陰キャにならないので、どうしようもないのが現実。「そうだよな、だから自分は…」「どこまで行っても自分は陰キャだな…」などの開き直りが行われる。親切から投げかけられたその言葉は陰キャの「精神プリズム」の中で屈折し、「自傷」の形をとってあらぬ方向へ帰着する。

「陰キャはなぜ陰キャを自称するか?」これはこうも言い換えられる。                  「陰キャはなぜ『低階層』の存在を作り出し、そこに自分をブチ込むのか?」

「陰キャ」そのものを自身が作り出し、自分を位置付ける。自分を「弱者層」にカテゴライズし、その存在で自嘲と自傷を起こしているわけだ。自分なりの答えは単純である。

思うにそれは「カテゴライズ」が目的だからだ。

自分が何かに属しているという安心感を得ようとし、「自分は陰キャ」から「自分『たち』は陰キャ」への発展を望む。もちろんそれは「お前もお前も陰キャだぞ!俺と同類だ!」などといった横暴なものではなく、仲間を求める動きは非常に受動的で内的なものになるが、我々はカテゴライズによる「同カテゴリーの存在」ひいては「存在としての安定」を求めているのである。

平たく言うと「陰キャトークができる」ことが有難い。

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「自分は陰キャなんですよ(笑)」「彼女できねー(笑)って、できるわけねーかこんなんじゃ(爆笑)」といった具合で、とにかく自分の存在を表せる「確固たる何か」が欲しいわけで、その際自分を低く見積もろうがネガティブに言おうが関係ないのである。(「実際そうだしな」とそこには妙な自信をもつことが多い)

ここで興味深いのは、他人の陰キャ自称を否定する場合があることだ。「いや自分はそうだけど〇〇は違うよ」といったように、せっかくの歩み寄りを反故にするケースが存在する。この場合は「陰キャ仲間」ではなく「陰キャとしてでもいいからとにかく自分を認識してくれる存在」を求めている。周りの人間を仮に「陽キャ」だと思っても、それらと普段から接している自分は頑として「陰キャ」であると主張するのである。

「陰キャトーク」というのはある種有効な処世術で、「自分は〇〇が全然ダメで」と入って「アドバイス」的な形をとっていけば割合自然にトークが進むというのは事実である。「自分最近〇〇にハマってる」という大胆な「自分語り」よりよっぽど使う上での恐怖が少ない。

とは言いつつも、それらはやはり「自虐」であり、その便利さが先走って結果的に傷つくのがわかっていても抜け出せなくなるタイプは多い。その「処世術」は決して治療法ではなく、むしろトータルで不幸を招くという点では依存性のある毒物と言えるかもしれない。

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