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#1 「謙虚さ」のエスカレートが陰キャを自虐に走らせる

陰キャにも色々なタイプがいるとは思う。「自分は本当なら周りにチヤホヤされるべき」と信じていつつも、中身を覗くと平々凡々なタイプ。「自分には何もない」と自覚、あるいは思い込んでいるタイプ(思い込みの場合は周りの引き出し方が毒にも薬にもなると思う)。

今回は、自分の思う陰キャの内的「あるある」のようなものである。あくまで自分のようなタイプの「陰キャ」についてのこと、つまりは自分語りに近い。

基本的にこの手の陰キャは謙虚である。これは今までの経験で「自分は思っていたほど素晴らしくない」という知覚を鮮烈な形で経験したことによるものが多い。写真に写る自分の顔や体型、後から見返した自分の創作物などから、主観と客観の隔たりを知る。

そのような経験自体は非常に重要なもので、以降は「他人の目から見た自分」を考えて動けるようになるという点でむしろ「経験しておくべき」ことであるといえよう。しかし、この経験が尾を引き続けた場合が厄介で、主観に対する信頼が一手に崩壊してしまいかねない。「自分は絶対に周りより劣っている」        「根拠のない自信は許されない」

このような意識が、日本人の美徳「謙虚」と相まって歪な自己否定モンスターを生み出す。

誰かに褒められたとしても、「いや自分はまだ足りない、不当に称賛されている」として、せっかくの相手の言葉を遮って否定してしまう。この時の否定は「それほどでもないです」どころではない。「自分は全然です」「あいつの方がよっぽどですよ」と、自分を下げて他人を上げる。他人を褒めること自体は悪いことではない、むしろ良いことなので、褒められ慣れない陰キャはこの手を多用する(しかしこの時に上げる相手がいつも同じになりやすいという傾向がある)。

「褒められる時に自虐をかます」という行為を文字で眺めた時、その不適切さに気づくかもしれない。結果的に空気は一変してしまうので、その先に続きはない。だが陰キャにとっては「返しができた」という認識になるので、今まで以上に自虐を多用するようになるか、その場でさらに自虐を言う。空気の重さからなかなか相手も否定しづらくなってしまう。結果的にただ自虐を言っただけにとどまり、不必要に自分に傷をつけるのである。

悲惨だが、陰キャはただ「謙虚」であろうとしているに過ぎない。自分に見合った認識を周りにも持ってもらおうとしているのである。改善策としては「褒められ慣れる」こと、結局は人との関わりでの能力改善に帰結する。自分は褒められた時に「まず感謝する」ということを意識しているが、「否定から入らない」ことがまず重要であるだろう。                 「いつも否定から入る」。嫌な奴の話し方としてよく挙げられる特徴である。ベクトルが違うとはいっても、相手はやはり「自分の思いを無下にされた」と感じ取ることもあるので、たとえそこで居心地の悪さを感じたとしても、その歪な「謙虚」という名の自己否定を抑える勇気が必要なのだ。

自分が実践できているかはまた別の話だが。

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