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多様性について(後編)

前編はこちら


さて
昨日の続きで
『多様性について』というお題です。

昨日は
全身タトゥーの男性が
実は小学校の教師だったというお話をしましたね。

「日本はまだまだ」とよく言われますが
国際社会では
多様性を尊重し合い
分け隔てなく
一人一人が活躍できる社会を目指した取り組みが
随所でみられます。

改めて
最近いろんなシーンで提唱されている
「ダーバーシティ(多様性)」とは何かというと
性別や国籍、人種、年齢などなど、様々な違いを尊重しよう!
というスローガンのようなものです。

世を見渡せば
黒人差別
LGBTQ
男女平等問題などなど
社会という人と人との集合体の中では
たくさんの問題がありますよね。

そんな中で
「みんな違ってみんな良いよね」
ということを言い合いながら
より豊かで生きやすい社会を目指していこう
といったムーブメントが
このダイバーシティ(多様性)という言葉に込められています。



多様性への違和感

僕はこの多様性という言葉が意味するものを
社会問題という切り口ではなく
ヨガ的な精神世界の切り口から
改めて考え直してみました。
(※複雑な社会問題の話ではなくヨガの話です)

ヨガの哲学では
自分の本質は「魂」にあると考えます。

つまり
ヨガの世界では「人」という言葉は
「魂」のことを指すのです。

人=魂

ちなみに
この魂のことを
「アートマン」や
「プルシャ」と呼びます。

この魂は
生きとし生けるもの全てに宿っているので
いま地球上に80億人の人が居たとすると
80億種類以上の魂が存在するということになります。

そもそも
人間の本質である魂が
80億種類あるということですから
「人はみんな違う」というのは
言うまでもなく当たり前の話なのです。

世間一般で言われている
「ダイバーシティ」とか「多様性の尊重」という言葉は

白人でも黒人でも良い
人種は多様でいいのだ

男性でも女性でも良い
性別は多様でいいのだ

と言っているのですが
僕はここに少し違和感を覚えます。

違いを認め合わなきゃいけないのは
人種や性別ではなく
自己存在の本質である
「魂そのもの」であるべきだからです。

そう考えると
世間一般で言われている
「ダイバーシティ」とか「多様性」という言葉は
比較の上に存在する相対的な言葉であって
本質的ではないように感じます。

相対的な言葉というのは
何かしらの比較対象があって
それとは違うバリエーションも認めていこう!ということを意味します。

多様性という言葉を使い続ける限り
この議論はいつまでたっても
白人と黒人を比較対象にしたテーブルの上で行われるということになるのです。



本質は魂

もちろん多様性を尊重しようとする社会活動には大賛成ですが
僕たちが本当に意識を向けなくちゃいけないのは
白人と黒人を比較して
「人種なんか違ってもいいじゃん」という意味の多様性ではないように感じます。

人種や性別など社会通念上や便宜上なんとなく定義された
うわべの情報ではなく
自己存在の源である
一人一人の魂を尊重するという意味での
「多様性」という言葉を使うべきです。

黒人差別を無くすことをゴールにしていると
それが無くなったら次は別の人種の差別が始まるだけです。

社会的弱者とされやすい女性の立場を優遇していくことは大事ですが
それが目的になってしまうと
その先には男性蔑視が待っているだけです。


まとめ


世間で言われている多様性の尊重というのは
人格そのものの尊重ではなく
その表面にある「国籍」とか「性別」といったただの情報の多様性にしかすぎません。

そうではなく
一人一人の魂を尊重することが大事なのです。

くり返しになりますが
僕は多様性を認め合う社会は大賛成です。

だから「白人警官が黒人の一般市民を銃殺した」といったニュースを聞くと
とても悲しいです。

ただ
どこが悲しかったかというと
「1人の人が、1人の人を殺した」ということに対してです。

黒人が亡くなったことが悲しいのではなく
1人の人間が亡くなったことが悲しいのです。

ここを間違えてはいけないと思います。
この間違いを起こさないよう
多様性という言葉をしっかり理解して使った方がいいなーというのが
今回のお話でした。

くれぐれも
複雑な社会問題に対するお話ではなく
ヨガの哲学や精神世界の勉強としてのお話でした。

おわり

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