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アガサ・クリスティー関連図書8

アガサ・クリスティーの真実 著者:中村妙子


関連図書の5冊目で紹介した、訳者である中村妙子さんの本です。
こちらの方が5年早く出版されています。

クリスティーの自伝と作品を紐解きながら、考察を深めていくのは「鏡の中のクリスティー」と同じようなスタイルで、クリスティー愛に溢れる作品です。

私が好きな箇所は、
自伝の中からの引用で、

孫息子マシューが2歳半くらいのとき、わたしが階段の上からそっと見守っているのを知らずに、そろりそろりと階段を下りていた。(略)
一段、一段、用心深く足を踏みしめながら、彼は低い声で繰り返していた。「マシューです。マシューがかいだん、おりてます。マシューがかいだん、おりてます」
ひょっとしたら物心がつきはじめると、人はみな最初のうちは自分を、その自分を眺めている人間と切り離して考えているのではないだろうか。わたしもかつて「アガサです。アガサがよそゆきの服を着て、食堂におりていきます」とひとりごとを言ったことがあるのかもしれない。
わたしたちの精神の住みかである体は、はじめはわたしたちの目によそよそしいものと映るらしい。それは実在であり、わたしたちはその名を知っている。(略)
けれども幼いころのわたしたちは、いまだにそれと十分に一体化していない。それは階段を下りるマシューであり、散歩にでるアガサであって、“わたし”でも“ぼく”でもない。わたしたちははじめは、自分自身を感じるよりも見ているのだ。
ところがある日、人生の次の段階が始まる。「マシューが階段を下りています」が突然、「わたしが階段をおりています」になる。“わたし”に到達すること、それが人生の第一歩なのだ。

人間がどのように内面的に成長していくのかを、小さい子供を観察することで見出していくクリスティー。この観察力の高さが、数々の人間性を主眼にしたミステリ作品を生み出した原動力なのだ、と紹介する。

さらに、

アガサ・クリスティーを、一生を通じて観察者の一面を強くもちつづけたように思う。
自伝の一節に彼女は、「わたしは、自分が頭の回転のはやいたちではないことを知っていた。問題にどう対処したらいいか決める前に、時間をかけて注意深く観察しなければならないのだった」と書いている。
そうした眼で、彼女は結婚というものをどのように見ていたか。。

と、アガサの結婚とそこから生み出されたメアリ・ウェストマコット名義の作品との関連を解説していて、クリスティーのミステリ作家だけではない一面を深く掘り下げている。

第2部では、クリスティーが『NかMか』で引用した

「愛国心だけでは足りません。何びとに対しても、憎しみの想いをいだいてはならないのです」
                      イーディス・キャヴェル

という言葉を残した、イーディス・キャヴェルの伝記(婦人之友に連載されたもの)が掲載されており、作者曰く、アガサの根底に、イーディス・キャヴェルと共通する真実への固執を感じているのです、とある。

伝記を読むと、イーディス・キャヴェルはとても真面目で少々気難しく堅苦しい人物である。
ユーモアがあり飛びぬけた空想力のあるアガサとは性格的には違う面もあるが、精神性の深いところで大事にしている信念、嘘は決してつかないというイーディスが、アガサの作品の「冤罪は許されないこと」「殺人は決して許されません」といった核の部分が共鳴しているように私には感じました。


1986年2月 初版本
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