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約20年前の中国“非主流”トリップ体験と中国観 ~中国の多角的多様性を考える~

おことわり

自分の経験(中国学習、中国留学、中国就業や中国ビジネスなど)を整理して書き出そうと思い、準備を始めた。
一部はノートのこのページに書いてあるのだが(https://note.com/tabito_china/n/n4b5d084487bc)、ほかに何かないかと探していたら、社内用に作った資料が出てきた。
自分の原点であり、一部の「中国すごいぞ系」のビジネスマンや、中国で有名になった日本人たちとは一線を引いている理由にもなっているもの。

本文は自分が上海で在留日本人向け情報誌を作りながら、不思議な縁で当時の中国農村部などを見て回る機会があったときのことをまとめたものである。
それからすでに20年近くが経過しているが、中国を見続けている身としては忘れずにいるものなので、あえてまとめてみた。
同内容は現職社内で閲覧用に作成したものを、note用に新たに整理したものである。


中国農村との出会い~2006年9月 四川省涼山彝族自治州

2006年9月。
当時のクライアントの招きで、同社がCSR活動を行っているという
「四川省涼山彝族自治州」
を訪れた。
今、中国関連業界で騒がれている日本人動画監督も足を運んだことがあるようだが、そのあたりは詳しくは知らない。
とにかく、自分にとって中国の「農村」や「富」と「貧」とは何を、本格的に考えるようになった、思い出の地である。

上海から空路、四川省成都市へ。そこから飛行機を乗り継ぎ「西昌市」へと到着。
そこからさらに数時間、オフロード車のようなものに乗せられて連れていかれた。
その時にみたのが、山を切り開いて作られた畑。
絨毯のように広がる緑色の植物は韃靼蕎麦。日本では「苦蕎麦」などと呼ばれ、北海道などの寒冷地でわずかに栽培されているものであるという。
この地は標高2000メートルの高地なので、気温も低いことから、古くから主食として韃靼蕎麦が栽培されている。

涼山内の韃靼そばの畑を歩く彝族の女性たち

見学していると、兄弟とおぼしき子供が大人の運転するトラクターの荷台に乗せられてやってきた。
相変わらず、普通話は通じない。
政府の人に通訳をお願いすると、農業の帰り道なのだという。
ちなみに「学校」という言葉にはきょとんとした表情で首を横に振った。
政府の人もあまり聞いてほしくはなさそうな雰囲気だった。

畑の中で出会った兄妹

やがて到着した「村」は、赤茶けた土とそれで作られた簡単な家。舗装などはされていない道路。
そして遠くに見える山。

すでに10年近く生活してた「中国の街」とは全く違う、別の「中国」が広がっていた(ここがその後行ったなかでも“最田舎”だった)。

到着した「村」

そこは彝族(いぞく)という、中国に55ある少数民族の小さな村。
普通語(共通語)も全く通じない。
案内役兼通訳の政府の人に聞けば、ほぼ自給自足に近い生活をしているのだという。
説明を受けたぶん初めて見るであろう「外国人」を迎えてくれ、ぎこちないながらも笑顔を向けてくれたが、自分にはまだそれが新鮮だったことを記憶している。

村で出会った少女。弟(?)を守りながらも笑顔を見せてくれた

さらに村から離れ「町」へとやってきた。
道路も荒っぽいのだが、舗装されている。
同時に農業帰りの籠を背負った人たちと多くすれ違う。
気になったのは、大人と同じように野菜を入れた籠を背負って歩く子供の姿も少ななくない。

野菜籠を背負った少女と多くすれ違う

同時にイルカならぬ「牛に乗った少年」たちは笑顔で手を振ってくれる。

牛に乗って買い物中の少年たち。町では「よく見かける光景」なのだそうな

町の目立つところには「貧しい家の子供に教育を。党と政府が支援する」といったスローガンが大きく、中国語と少数民族の言葉で掲げられていた。
「勉強し、高考に合格すれば人生が変わる(貧しさから脱却できる)」
それだけを悲願として教育を受けさせよう、という考えなのである。
ただ実際には、様々が問題が横たわり、数字の就学率ほどに入っていなかった時代だった。

「教育で子供を豊かに」。スローガンと現実の状況が微妙なコントラストを描く

観光の中にいる「貧困」~2006年12月湖南省吉首市鳳凰

2006年12月末日。
当時どうしても行きたかった湖南省の鳳凰古城を旅した。
純粋な旅行である。

中国では珍しく明代の街並みがその城壁とともに残り、風光明媚な観光地でありながら、当時は日本人にはあまり知られていない街であった。

ただ、そこでも、当時の中国の社会問題となっていた「貧困と子供」にまつわる思い出深い出会いがあった。

中国国内では風光明媚な観光地として知られる

この街、街並みは綺麗だったのだが、ご多分に漏れず、すでに観光開発の波が押し寄せており、場内のほとんどがおみやげ物売り場やバーになっていた。
特にバーには辟易した。外国からの観光客を目当てにした「サービス業」の場となっていて、素朴な住民の姿はほとんど見られない。
さらには城壁自体が安っぽいネオンサインでライトアップされてしまい、上海と大して変わらないのである。

結局、城内をあきらめ
中国人が参加する苗寨(苗族の村)1日ツアーに参加した。
その中で、「老洞」という苗寨を訪れた時、ツアーのなかでも私の横を
ちょこちょこついてくる少女がいた。
その子は、民族柄の布製のリストバンドを売っていた。
あんまり土産物を買わないので、話しかけてくる少女に適当に答えながら歩いていたのだが、
ずっとついてくるので、最後に2つだけ布製のリストバンドを購入した(10元)。
「お父さんとお母さんのお手伝い?」
と聞くと、少女は首を横に振り
「おばあちゃんが作っている」
と答えた。

彼女の両親もまた大都市に出稼ぎに出ており、
旧正月まで会えないのだという。
「(リストバンドで)稼いだお金でノートを買うの」
そういって少女は私に笑顔を見せた。
さらに「これでおばあちゃんに怒られなくて済むの」といって、少しだけ笑顔を見せてくれた。

「扶貧」、「支援」~2007年6月、11月 安徽省宣城市

2007年6月と11月。
上海日本商工クラブが安徽省貧困地区における「助学支援」を行うと聞いて
現地への同行取材を行った。
安徽省は沿岸部であり、上海を含む華東地区にはあるが、山に囲まれた土地であることなどから交通の便が悪く、当時は開発・発展から取り残されていた。
しかし同時に上海の工場などで働くブルーカラーの多くが安徽省からやってきており、上海の日系製造業のワーカーでも高い比率を占めていた。
そうした「自社従業員のふるさと」への支援、特に経済的な事情で学校にいけない子供を経済面から支援することで上、海における日本企業全体のイメージ向上を図ろうというものだった。

中国の貧困地区では経済的に苦しい家庭は学費(公立でもある)が免除になるが、雑費として年間300元がかかる。
当時でもそんなに大きなお金ではないが、貧困家庭には大きな負担であった。
そうした話を聞きつけた当時の上海日本商工クラブ事務局長が、そうした300元も出せない家庭の子供を支援しよう、とプロジェクト化したというものである。
ちなみに、この土地は外資や内資系企業の工場といった企業進出が遅れており、農業などで生計を立てている家が多い。
また両親そろって出稼ぎに出ている子供(留守児童。後述)も少なくないばかりか、貧困の中で親が博打などにのめりこみ子供の通学用雑費を使い込む、というケースも多く耳にした。
さらに、学校はあるものの校舎も老朽化、子供たちも教科書を上の子供たちのものを使いまわしているため、ボロボロのものが多かった。
この時は日本の文具メーカー「コクヨ」からノートやペンを預かり子供たちに手渡した。
それすらも変えない子供が多くいるのである。

新しいノートに喜ぶ子供たち。20年前の貧困地区では高級品だった。

現地取材以外でも多くの話を聞いた。
ある小学生の女の子は姉がいる(田舎では一人っ子政策が徹底されていない、もしくは隠れてもうけるケースも)。その姉は成績もよく、中学校へあがろうとしていた。しかし、家には2人を学校に通わせる金がない。
その女の子はそれを知り、自分から「学校に行かない。だからお姉ちゃんを中学に」と言い出したという。

ある子供は、祖母と2人暮らし。大都市ではたらく両親からの仕送りで生活していた。
しかし、その祖母も年齢のためか足腰が弱まり、小学生の子供が家事一切を行っている。
もちろん学校に通うお金も捻出できずにいた。
別の子供は、父親が障害のため「働かず」、ばくちに手を出し、子供の補助としてあてられた300元をも使い込んでしまったという話もあった。この土地の子供たちにとっては学校は遠い場所なのである。

ある女の子は、祖母と2人暮らし。大都市ではたらく両親からの仕送りで生活していた。
しかし、その祖母も年齢のためか足腰が弱まり、小学生の子供が家事一切を行っている。
もちろん学校に通うお金も捻出できずにいたのを、その支援で学校に行けるようになっていた。
彼女の家にはガスが無い。
「おばぁちゃんのご飯を作らないと」
そういう彼女の指先は冬場の炊事であかぎれがひどく、そこに炭が刷り込まれていた。
ガスのない家では、トウモロコシの幹を燃料にする。その灰で手が黒くなるのだとか。
小学5年生が、である。

現地取材以外でも多くの話を聞いた。
ある小学生の女の子は姉がいる(田舎では一人っ子政策が徹底されていない、もしくは隠れてもうけるケースも)。
その姉は成績もよく、中学校へあがろうとしていた。しかし、家には2人を学校に通わせる金がない。
その女の子はそれを知り、自分から「学校に行かない。だからお姉ちゃんを中学に」と言い出したという。

別の子供は、父親が障害のため「働かず」にいるのだが、ばくちに手を出し、子供の補助としてあてられた300元をも使い込んでしまったという話もあった。
この土地の一部の子供たちにとっては学校は「近くて遠い場所」なのである。

上海で見た光景に「中国」という国の多面性を考える

この「2泊3日の安徽省現地取材から当時の拠点・上海市の自宅近くまで来たときに、自分の中では「訳の分からない」、不思議な事が起こってしまった。

その時私は少々小腹がすいたのでマクドナルドに立ち寄った。いつも立ち寄っている店である。
いつものように金を払い、席について食べ始めた。
その時、入り口から小学生と母親の二人連れが入店した。
会話の声が聞こえる。
子供「ママ、今日はポテトだけじゃなくてナゲットも食べたい」
母親「いいわよ。なんでも好きなもの買ってあげる」

その会話が耳に入り、「ついさきほどまで安徽省で話していた子供たちと同じくらいだな…」と思った瞬間に、ひどい眩暈と吐き気を覚え、店を飛び出した。
そして街路樹の下で大胆に吐き出してしまった。

ほんの半日前出会ったのと同じ年ごろの子供と上海のマクドナルドに現れた子供。
しかしその環境は全く違う。
片方は年300元の雑費に事欠き、トウモロコシの幹を焚いて祖母に食事を作る子供。
方や、そのおそらく1/3程度のファーストフードを、ごく普通にためらいなく食べることのできる子供。

たった数時間の距離である。
それだけの距離の中に、まったく別の社会が広がっている。

そのことが、どういうことなのか。その時の自分にはとっさに受け入れられなかった、受け入れられるほど脳が成熟していなかったのだと思う。

このことは、自分が「中国」を語るときに必ず思い出す経験となっている。

一言で「中国」を語る時の「恐怖感」のもと

こういう話をすると、一部からはイヤな顔をされる。

  • 中国を貶めて喜んでいる。

  • 反共、反中国的な言葉だ

  • 今の中国は違う、もっと華やかに発展している。中国のイメージを壊すデマだ

そのあたり感情論は好きにしていただいていい。
ただ、一部の企業の中国担当者からは別の声が上がる。
「でも、ウチの商品を買わない人たちの話でしょ?」
その通りである。
しかし、こう答えている。
「あなたたちが、今、市場を開こうとしている国の話です」

必要ないことかもしれない、でも知っておくべきことなのである。

一冊の脚本がある。
タイトルは『シャンハイムーン』。
国民党に追われる魯迅を助け、その病を治療しようとする日本人・内山完造と妻みき、須藤五百三、奥田愛三、そして魯迅の妻である許広平たちが奮闘する、コメディタッチで同時に泣ける舞台の脚本。
日本を代表する劇作家・井上ひさし氏の作品である。

古本屋で手に入れた『シャンハイムーン』

その舞台、脚本の中で、小説を書くことを決めた魯迅のセリフが、地方の農村を見て、モヤモヤとしていた自分の中に深く残った。


上海の夏のある日。時刻は月の出のころ。
一階では若い母親が赤ん坊をあやしている。
二階のダンサーはジャズのレコードをかけている。
三階の屋根裏には電気がない。
月の光で青く染まったその中で若い男がひとり病気で死にかけている。
隣の家では株の仲買人たちが馬鹿笑い。マージャン牌の音もする。
そのまた隣はどぶ川だ。
月の光で骨のように見える川船の上で、
死んだ母親にとりすがって幼い娘が泣いている。
てんでんばらばら
ーー人間の悲しみ、苦しみ、よろこびはてんで通じあわない。
だれもかれも砂のようにばらばらに生きて、そして死ぬ。


これが自分が中国を語るときの恐怖感の元。

てんでんばらばら
それが中国。

中国という言葉はそれらをすべて網羅している。

だから「中国」を語るのであれば、それらをすべて網羅して語らねばならない。

中国について語ったり書いたりしている。
仕事でも仕事以外でもそういう機会が増えている。

ただ、その時には非常に憶病になる。
語ること、書くことが怖いと感じる時がある。

誰かが、自分をじっと見ている。

そんな気がするのである。

それがなぜなのか
見ているのが誰なのか
なぜそんな気がするのか。

それは、てんでんばらばらな中国の中で出会った
たくさんの子供たち。

あの子たちは常に問いかけてくる。

「いま、あなたが語る“中国”に私たちはいますか?」

最新鋭のEV車が街を走る。
電子決済が浸透しビッグデータによる管理が進む。
医療・教育もIT化し続けている。
膨大な数のドローンで中空に美しいアートを作り出す。
GDP世界第2位。
海外に出れば高級ブランドを大量に買い込める。

そんな中国を見て、目を輝かせるビジネスマンも少なくない。「日本はもうダメだ」と語る人も多い。

それもいいだろう。

だが、同時に中国では今でも「留守児童(両親ともに出稼ぎに出て、祖父母のもとに預けられている田舎の子供。虐待の対象や未登校児童になるケースが多い)」の問題が解決されていない。
中国を代表するコラムニスト・呉暁波氏も、最近、「留守児童の子は、なぜまだ留守児童なのか」というコラムを提示している(https://mp.weixin.qq.com/s/YEy8NnOKK8fgAtMqpjgFPw

そうした子供たちの目が、私には付いて回っている。
だから、安易に「中国スゴイ論」は展開できないし、それに沿って動画を撮ってネットや劇場で感動的な作品として公開する神経にはなれない。
また同時に意気揚々と「崩壊論」や「危険論」を語ることもない。

ただ、あの旅先で出会った子供たちと、彼らから向けられた目を忘れず、「元気でいてくれるといいな」
と願いながら中国観察を続けるのみである。


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