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【マシュマロ回答:遠升あきな】エクソシストなどの事例に対し、客観的事実、超越的事象を、どのように統合的に扱い得るのか

こんにちは。いつも楽しく視聴しております。
あきなさんへの質問です。

あきなさんは以前配信で、霊媒師やエクソシストの方々などを、学問的なアプローチから研究したいとおっしゃっていたと思います。

私は、聖書を読むにあたって、客観的なエビデンス(資料分析や考古学的な知見)を重視したいと考えています。その知見を得た結果、「聖書に書いてあることに過度な期待を抱いていたんだなぁ」と幻滅することがあります。また、奇跡や「しるし」を、どう受け止めて良いのかという違和感もあります。

一方で、客観的なエビデンスで分かることは僅かではあるとも思っています。人類全体が学問としてカバーできる範囲が僅かであるという意味と、その学問を咀嚼できない私個人の弱さという、両方の要因があると思います。ですが、聖書やキリスト教に限らず、超常的な現象というのも、にわかには信じ難いものの存在するかもしれない、と思っています。

超常現象には、人間のプラシーボ効果である程度説明がつくものもあるかと思います。プラシーボ効果といえども侮れない効果を持つと思います。とはいえ、「苦しい状況に置かれている人が生き延びていこうとする」際に、プラシーボ効果のみを当てにしようとすると、客観的な知見を無視した「信じたいものを信じる」ということの弊害(信じる当人が周囲と対話不可能になる弊害と、苦しみにつけ込む人が出てくる弊害)があるように思えます。「よくわからないもの」や「不条理」をそのまま抱き抱える「ネガティブ・ケイパビリティ」という概念もありますが、これだけを強調すると、客観性を軽視する弊害が出て来ると思えます。

「学問的か」、あるいは「学問ではまだ分かりかねる事柄もあるのだと受容するのか」は、どちらか片方に振り切れば良いとは思いません。また、あきなさんは配信で、「エクソシストにかかる人は、9割以上が精神疾患である。ただ、僅かながら、精神疾患では説明のつかないケースがある」とおっしゃっていたと記憶しています。あきなさんが学問的に研究をされるなかで、客観的な事柄と、超越的な事柄とに、どのように向き合おうとされているのかが気になりました。

こちらの身を明かさず、長文を申し訳ございません。
あきなさんの研究テーマについては身バレも考慮される必要があると思いますので、スルー頂いても大丈夫です。

クミのマシュマロに届いた質問

以下、あきなの回答を載せます

くみちゃんに口寄せで召喚されたので死後のサムエルのように地獄から這い戻ってまいりました。遠升あきなです。「エクソシストなどの事例に対し客観的事実、超越的事象を、どのように統合的に扱い得るのか」という質問だと理解しました。以下、考えの道筋を述べます。

①学問はいつも仮説

 まず学問は、仮説であることを前提しなくてはなりません。基本的に、現時点でもっとも蓋然性の高い説明の仮庵、それが学術成果です。自然科学や工学、医学においては、論より証拠、とりあえず対症療法的に作用している、問題なく機能するゆえに、それらを「事実」として扱います。しかしなら過去には、そのような事実が何度もひっくり返ってきました。これについては言わずもがな。

②超常に対する合理的説明と信仰の関係

 奇蹟やしるしについては、仏教における方便として考えても良いかもしれません。つまり「信じるならば、それは存在する」という理解です。キリスト教においても、イエスの復活は「信者の心の中に宗教的現実として事実、復活するのだ」という説明がなされたりします。それと一緒です。

 一方、あきなとしては何かしら超常現象があっても、とくに構いません。たとえば、リドリー・スコットの映画「Exodus:Gods and Kings」は、モーセの海割りを彗星衝突による地震、その沈降する波による海面低下と解釈しています。たしかに説明になりそうですが、そのタイミングで、このようなことが起きるのだとしたら、やはり、それは奇蹟というべきかもしれません。他方、モーセの歴史的実在について考古学的証拠がないことは広く知られた「事実」です。伝承としては存在するが、事実としては確認できない。日本の神武天皇と一緒です。これらも証拠が出れば、いつか覆される「事実」かもしれません。

 何が言いたいか。まず超常現象に関する合理的な説明は、ある程度まで可能です。次に、その解釈と意味は多様です。モーセの海割りは、信者にとっては事実でしょうか、信者でない人々にとっては偶然です。つまり解釈の枠組みによって事実の意味が変わります。では、どうするか。

③人文学の機能

 一つの事実に多様な意味が存在する場合、それをどう判断すべきか。自然科学は、水をH2Oとしか言わず、社会科学は、水の機能しか指摘しないでしょう。しかし、人文学は、まさしく人間の精神や文字を対象とするがゆえに、文字の中にしか存在しないもの、または概念や情の研究を可能とする学問です。

 たとえば、愛や友情の存在を多くの人々が信じています。それらに対して、もっとも肉薄できる科学は、やはり人文学だと思います。いいかえれば、物理的事実と社会的意味を踏まえた上で、その内的価値の問題を統合的に捉えるのが人文学の機能です。いいかえれば、この自然/社会/人文の三分野の横断的循環が、ひろく近代科学を構築するわけです。もちろん学問論として三分野でいくこと自体に問題があります。人文学への対抗としての人類学などもまた視野に入れる必要があります。

 つまるところ、超常現象など超越的事象は、まずは文学的表現として、その意味に迫る必要があります。その上で近代科学の循環の中で、その価値・機能・事実を洗練する必要があります。

④近代以前の学知

 では近代知では取り扱えないものはどうすべきか。まず近代科学の限界を認めるべきです。カントによって神が保存されたことの意味は抑えておくべきです。また近代知の歴史が200年に満たないことは前提したほうがよいです。言うまでもなく人類の学的営みは、近代以前より為されてきました。たとえば、ギリシア哲学、キリスト教神学、仏教の教学、易学などが挙げられます。体験知も含む学的体系が存在しています。

 ヤスパースが名指した約2,500年前以来、人間の抽象的知の体系化は、いまだあの時代を超えていません。その意味で、近代科学をメタに批判する機能を持つのが、近代以前の学知ではないでしょうか。

⑤インターフェースとしての自然神学

 では改めて客観的事実と超越的事象をどう扱うべきか。①から④にて述べた手続きをどのように学術化することができるのか。その答えがキリスト教神学における自然神学だと、あきなは考えています。これは啓示神学に対する自然神学といった意味ではありません。このような理解は多少でも神学に手をつけた者なら、自らを恥じ腹を切って神に詫びて死ぬべき俗流の理解です。

 ここでいう自然神学とは、厳密に学問的な意味でのそれです。とりあえず、芦名定道『自然神学再考―—近代世界とキリスト教―—』は読んでおくと良いです。
http://www.koyoshobo.co.jp/book/b312201.html

 ひらたくいえば「自然神学」とは哲学の一部門であり、広義の「宗教哲学」を意味します。上掲書の定義を引用しておくと『自然神学とは、第一義的には、キリスト教神学が他の諸学問、諸科学とのコミュニケーションを成立させるために生み出されたインターフェイス』です 。(芦名定道『自然神学再考』晃洋書房、2007年、17頁)
 なお 「自然神学」に関する先行研究は、A.E.マクグラスが1998年以降に展開した『宗教と科学の対話』『科学的神学』『神の科学』も読むとよいでしょう。

質問:エクソシストなどの事例に対し、客観的事実、超越的事象を、どのように統合的に扱い得るのか

回答:①学問はいつも仮説であることを前提し、②超常に対する合理的説明と信仰の関係を③人文学的に考察し、④近代以前の学知と照合する場として、⑤インターフェースとしての自然神学を用いるならば、統合的な観察が可能ではないか、と考えています。以上です。地獄に還ります。

遠升あきなの回答


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