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旅-冒険-みたいなもの


何者なのか

星善之、31歳、he/his、パフォーマー・演出家・俳優
福島県出身

時折、名も名乗らずに、ずっと会話していることもある。
ただ一言
「〜から来ました。ここに泊まってるんです。」
とだけ。

不思議なもので、こういうときほど、自分は会話ができる。
というか話を聞くことができる。
人は人が思うほど、僕には興味がない。
集団だったり、誰かの紹介だったら、僕のことを紹介するが、
そうでなかったら、旅先で急に
「僕は星善之、俳優です!」とは言わないだろう。

「〜から来ました。」
話のスタートとしてはこれで問題ない。
と、一人旅をしていたら思う。

じゃあ、僕は、一体何者なんだろうか。

旅-冒険-とのつながり

幼い頃、寝るときに、母が読み聞かせをしてくれていた。
「エルマーのぼうけん」や「かいぞくポケット」など、
冒険物が好きだったのを覚えている。
寝る前の少しの時間、私はよく旅をしていた。
物語を聞きながら、世界を想像し、自分も冒険している感じになる。
今考えると、演劇を志すきっかけの一つになっていたのかもしれない。

また、演劇を志すきっかけの一つとなっているのは、小学4年生のころの観劇体験だ。
(このときの話は、ART LIVES TORIDEの中のインタビューで触れたので詳しくはそちらを。)
このときに観劇したのが「森の中の海賊船」(上演:劇団風の子)も、また冒険ものである。
当時人口9000人ほどの小さな町で味わった非現実的な時間は、夢を見るには十分なほどの旅の時間だった。

勝手なこじ付けではあるけれども、この非現実的な夢のような冒険の経験たちがあって、演劇は旅-冒険-みたいなものであるという考えが身についたのかもしれない。

旅した先々で

旅公演が好きだった。
各地で出会う関係者やお客さんや食事、土地の空気感、名所。
土地や人と知り合いになれる。風を身体に取り組める。

旅公演はとても疲れるが、力を蓄えられる。
公演先に行き、荷下ろしをし、仕込みを行い、稽古をする。
すぐにゲネプロが始まり、気づいたら本番になる。
本番が終わったら、すぐにバラシ、荷積、打ち上げをして、帰郷。
まだまだ慣れたとは言い難いが、あのバタバタ感は心が躍る。

劇団を辞めてから、何をするわけでもなく、人とのつながりだけを頼りに、旅をしていた。
旅をすればするほど、その土地に根付いて生きている人たちの、思考や取り組みに深みを感じるようになる。
その土地や土地にいる人と一緒に生きていくこと。
所帯も定住先も持たない自分にとっては、羨ましくもある環境である。

旅をすると、比較対象が増えていく。
自分とは違う何かにたくさん出会う。
その違いに思いを馳せる。
自分ができないことを、ここにいる人たちは成し得ていることに、
羨ましさを感じる。
羨ましさが、妬みになっていく。
妬みが、納得になり、ようやく自分の栄養になる。
少し自分とは何者かがはっきりした時、
また次の旅をしようかと思った時には、
世界はあっという間にずっとその先に進んでしまう。

世界、というよりも、日本がか。

Standing, Being 7

Posted by 星 善之 on Monday, February 22, 2021

これはStanding,Beingという活動です。
ただ立つだけですが、その地に立ち続け、風や土地の声を聞くというパフォーマンスです。旅先でやっていたりします。最近は頻度が落ちていますが。

Standing, Being 6

Posted by 星 善之 on Sunday, February 21, 2021

お金と旅

旅公演が好きな理由に、同じ演目を長い期間、何度もやれる機会をもらえるから、というのがある。
東京で1ヶ月のロングランをしようと思えば、会場費だけで100万単位のお金が飛んでいく。人件費やらなんやらを加えたら1000万は超えていくだろうし、声なくても何百万というお金が飛んでいく。
もちろん、人件費を抑えて、なるべくお金をかけずにあれる場合もある。
スタッフも全部自分でやるといった、完全一人芝居の形式を取れば、まあやれなくもないだろう。
しかし、そんな稀有な人間が存在するだろうか。ほとんどいないと思う。
旅公演もそうだ。
僕はこの間小さな旅公演を行った。スタッフも雇わず、4人(旅公演帯同メンバー)という人数で、試行錯誤を繰り返し、なんとか公演を行った。
それだけでもとても大変だった。
それが所帯で移動する旅公演となったら、本当に大変である。

それでも旅公演はやりがいがある。
その場で出会った人たちとの交流。
受け入れてくれた人たちとの付き合い、観光地巡りなど、場所との付き合い方は様々だが、どれもこれも有意義なものだ。

お金がなくても、やる意義と、受け入れ先とのつながりがきっちりあれば、旅を生み出すことはできる。お金があれば、それは楽なのだが。

時には、お金をいただくこともある。
しかし、もらうことがいつもしんどい。
(こればっかりは誰か代わりにやってほしいとさえ思う。)

お金がなくても、旅はしたい。

しんどさを抱えていても、
生きていることが演劇ならば、
旅をしないということは僕の生き方に反することだろう。

僕にとっての東京での生活は、今思えば旅の一つだったのかもしれない 
2021年「『なめとこ山の熊のことならおもしろい。』」上野公演 ©️野宮有姫

暮らしと旅する、旅するたたき場

最近、「暮らすように旅する」というキーワードを知人がSNS上に書き込みをしていた。
先日、メンバーの神保さんが「暮らし」というキーワードを挙げていた。

僕はドイツに休暇で来ている。と最近は言っている。
とはいうものの、毎月家賃を払い、スーパーに買い物に行き、携帯代も支払っている。
暮らしている、といえば暮らしている。休暇といえど。

6月からは住み込みをしながら1ヶ月間だけ働く予定である。(日本)
これもまた、暮らしている、ということになる。

しかし「暮らす」だけでは、何も作品にはならない。
なぜならば、みんな「暮らしている」からである。

このことを考えたら、僕は「暮らしを味わい、その体験を作品に昇華する」というようなことを結局はしたいのではないだろうか。
このような取り組みは、文化搾取という言葉として表現されることもあるようだが、僕はあまりその言葉を好まない。
文化搾取というのは、それに敬意を表さず悪用することを言うのではないだろうか。暮らしを味わい、実感を持った上で、もしくはそれに関心を持った上で向き合いながら作品に認めたら、僕はそれでいいと思う。そこに嘘がなければ。

旅、暮らす、というキーワードからふと思ったことを書いてみた。

旅と休む時期

旅を続けていると、それが日常化していくのだが、そうするとあっという間に体力がなくなる。
どうやら僕にとってずっと旅することは、かなり体力を使うことのようだ。だから、よく休む。
旅をして、休んで、考えて、また旅をする。

演劇の創作をしているときは、旅がずっと続いている、というような感じだ。終わりがない旅だけれども、その旅をずっと続けていると、どこに向かっているのかがわからなくなってくる。

そうしたら休む。
休むことも旅なのだから、それでいい。
とことん休んで、自然と火が焚きつけられるのを待つ。
寝て待つのに飽きたら、どこかに遊びに行けばいい。

そこできっと何かに出会う。
出逢いにいくと、出会えないものにも、出会えたりする。

「高瀬舟」はいまだに新しいバージョンを作りたいと思っている。
旅がまだまだ終わらない作品だ
2022年「高瀬舟 -庄兵衛ver.-」会場:サブテレニアン©️ロブ・モレノ

旅するたたき場、がどこへ向かうのか

旅するたたき場は、その瞬間を大切にしていく。
一瞬一瞬の輝き。
日常という大きな時間の流れの中にある一瞬にスポットを当てる。

まあ、当然、全てのことがそうだと思うんだが。

僕はその瞬間を味わいたい。
一挙手一投足が、誰かの血や水、栄養になってくれと、そう願う。

そのためにも、僕は旅をして、その土地の暮らしの中に入り、暮らしの中に入りながらも、他者の目も持ち、その土地と少しでも共生できる瞬間を探ることをやめない。

旅するたたき場でも、その姿勢は崩さないでいこうと思う。

新しい土地に入ることや考え方に触れることは全てが旅であり、冒険である。
その中をどうにか軽やかに、社会とうまく混じりながら、僕は僕として、また、旅するたたき場として、存在していくつもりだ。

音楽演劇「ちょっと待っててね」舞台美術写真
会場:「うみのいえ」小劇場 福井県池田町

はじまりは、ここから。

2024.01.31 ver.1

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