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031.文明進化論を小島に見る

2002.9.17
【連載小説31/260】


機会があれば、是非、訪れてみたい島がガラパゴス諸島だ。

太平洋の東部、南米大陸エクアドルの西に位置するガラパゴス諸島は、ゾウガメやイグアナ、グンカンドリなどが暮らす野生生物の宝庫。
かのダーウィンが進化論の発想を得た場所としても有名なこの島は、ユネスコの世界自然遺産に指定され、希少な固有動植物が数多く生息する凝縮されたミュージアムアイランドだ。

悠久の地球生命史に比べれば、ほんの短い人類史ではあるが、遠い未来にその「文明進化論」が語られることがあるとしたら、そのモデルもまた、南海の島々になるのかもしれない。
大陸的な文明進化の歩みは、いったん目一杯風呂敷をひろげるかのように拡大した後、淘汰によって適正サイズへと収縮していくだろう。
そして一時、遅れをとったかに見える小さな島は、その「適正」を受け入れて進化した文明社会を凝縮したかたちで具現していくはずだ…

と、少なくとも僕は予想している。
そして、その未来がマーシャル諸島やトランアイランドの現在の中に、既に一部見てとれるような気がするのである。

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大陸がゆっくりと暗中模索の中にその歴史を重ねるのなら、島はドラスティックな変化の受け入れを可能とする。

例えば「移動」やそれに伴う「輸送」という概念。
大陸ではまず、道路がつくられ、そこに荷車や馬車とかを走らせることで物資が方々へ行き渡り、ヒトの生活圏が広がる。
次に、より大量のモノをより短い時間で移動させるために線路が敷かれ、その上をテクノロジーの成果たる列車が化石燃料から生まれるパワーによって走り始める。
が、生活圏の拡大は一大陸にとどまらず、海を隔てた異国へとその進路を延ばすから、今度は海上を移動する船が活躍し、やがてさらなるテクノロジーの進化により、「航空」がそのスピードを大きく短縮する…

そう、グローバル社会へと至るプロセスには、「陸→海→空」と展開する「移動」概念の進化シナリオがその背後に隠れて存在するのだ。

では、島に目を転じてみよう。
陸続きではない島々のグローバル社会における開発は、鉄道の歴史を飛ばしていきなり海空の拠点づくりからスタートする。
世界がひとつに結ばれた時代に生まれる島の民にとって、日常空間を越えた「移動」とは、イコール海外への旅であり、それは主に飛行機により可能とされるものだろう。

身近な地域への移動から生活圏を徐々に拡大し、より遠くを目指すテクノロジーとの出会いを重ねてきた大陸の民にとっては意外であろうが、南の島では「飛行機や船は見たことがあっても、延々と続く線路を走る鉄道が未知なる存在である」という人々の方が、圧倒的に多い。
つまり、島の民が大陸で育った文明果実の、より進化した種を先に手に入れるという逆転現象が「文明進化論」の大きな特性なのだ。

物理的な「移動」だけではない。
同様のことは20世紀テクノロジーの最たる結実である通信やネットワーク分野においても起こっている。

電話線というインフラを敷き詰めて出来上がった通信網が鉄道型ネットワークだとすれば、モバイル機器で繋がる通信網は航空型ネットワークといえるだろう。

マーシャル諸島のマジュロ島中央部には巨大なパラボラアンテナが存在し、僕が滞在するアウトリガーホテルではインターネットに常時接続可能であり、部屋のテレビではNHK番組の受信が可能だ。
また、カブア氏によると昨年あたりから徐々に増えてきた携帯電話の市場も今後一気に高まる可能性があるという。
複雑なインフラ整備が不要な無線ネットワークは、いくつかの基地さえ確保すれば、「導入する」と決めた時点でサービス開始可能な魔法のコミュニケーションシステムだと、彼は言う。

ここでも、「家」という「不動」の場にその構成員が共有の電話機を持つ歴史を長く重ねた大陸の民の歴史をスキップして、島の民は「個」が「移動」の中にパーソナルな電話機を持つという概念でその通信生活をスタートする逆転現象が生まれることになるのである。

どうだろう?
一見、大陸が重ねた文明から遅れていたようで、その成果を効率よく吸収して、後から効率よく進化するのだとしたら、島には一種のしたたかさや生きる知恵といった「生命力」が内在されてあるとは考えられないだろうか…

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そういえば、ミクロネシアの小国で、裸足の子供たちが通う小学校の授業にパソコンが導入されているのを見て驚いたことがある。

「恵まれない途上国の子供たちに靴を…」なるボランティア精神が正しいとされる社会の中で育った者にとっては、何とも不思議な光景であった。
が、その一瞬に感じた違和感が、同じ子供たちが放課後の砂浜を走り回る姿によって、これまた瞬時にかき消されたのも驚きであった。

それは、彼らの日常とは、大地を生身で踏みしめる感触の上に成り立つものであり、僕らの日常とは、その身に何かをまとうことで成り立つものであること。その違いを悟ったからに他ならない。

靴の普及とパソコン普及の相関関係…
今や、文明国の常識や技術、習慣が地球生活上のスタンダードとはいえない時代を迎えているような気がしている。

------ To be continued ------

※この作品はネット小説として20年前にアップされたものです。

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【回顧録】

この回の末尾に記した「文明国の常識や技術、習慣が過去のものとなる時代を迎えている」という感覚は今も変わらない…
ということは、この20年間はなんだったのだろう?

冒頭でガラパゴスに触れましたが、当時はスマートフォンという概念が見えてきたタイミングでまだ「ガラケー」というワードはなかったと記憶しています。
手のひらに乗る端末自体はかなりの進化したように思いますが、それを取り巻く社会の進化は鈍いどころか後退している感さえあります。

21世紀がスタートし、文明は加速度的に進化して世の中の課題は続々と解決されるだろうという期待を持ったことが文明進化論の落とし穴だったのかもしれません。

太古と変わらぬ姿で海を見つめるイグアナの写真を見て「変わらぬことが進化なのではないか?」という不思議な思いが湧いてきます。
/江藤誠晃



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