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note68: ニューヨーク(2011.9.27)
【連載小説 68/100】
異国を旅してこそ見えてくる“日本”がある。
昨夜は「SUGO6」アプリのレストラン情報でチェックしておいたタイムズスクエアにある寿司屋を訪ねた。
若い世代にこんな話をすると意外に思われるのかもしれないが「SUSHI」という日本の食文化が外交上果たしてきた役割は大きい。
今でこそ、ニューヨークに限らず世界中いたる都市で寿司屋やSUSHIバーを見かけることができるが、以前はそうではなかった。
おそらく20年くらい前までは「ローフィッシュ(生魚)は気持ち悪くて食べられない」というのが、日本を訪れる西洋人の口から出てくるきまり文句だった。
それが肥満大国と揶揄されたアメリカにおけるダイエットブームとリンクするように「SUSHIはヘルシーかつエコな食べ物」という評価が定着し、一気にブレークした。
「食生活で見るとアメリカ人には2種類が存在する。不健康な人と不健康なほど健康にこだわる人だ」というジョークを聞いたことがある。
ハンバーガーやホットドック・ステーキ・ドーナッツ・アイスクリームをこれでもかというほど食らう大食漢がいる一方で、肉や魚のみならず牛乳や卵といった動物に由来する全ての食材を食べないストイックなまでの菜食主義者も存在するところがアメリカらしいところだが、高タンパク高カロリー食生活と禁欲主義的食生活の両極端の間にあっSUSHIはアメリカ人に食文化の新たなる可能性を示したといっていい。
火や油を使わない低カロリー性は当然のこととして、調理がシンプルであること。
米と魚の組み合わせでありながら、そこに色とりどりのメニューが生まれる多様性。
「カリフォルニアロール」に代表されるオリジナルメニューの可能性と創作性。
といった諸要素だけを見ても差別化された食文化であることがわかるし、そこに箸や皿、板前と対面するカウンタースタイルなどの周辺要素も加えると、極めて東洋的かつ最近のキーワードでいえば“クール”なミックスカルチャーとしてSUSHIがアメリカ人に受け入れられた背景が見えてくる。
実は、今日訪れた寿司屋のカウンターで横に座った初老のアメリカ人が、僕が日本人だと知るととても喜んで独自の“寿司論”を語ってくれた。
彼いわく、寿司屋のカウンターこそが日本の素晴らしさが凝縮された場所だとのことで、そのわけを聞くとこうだった。
まず、西洋では料理を作るのは厨房の中でコックとゲスト(客)が顔を合わせることはないが、寿司屋のカウンターではコックの仕事をライブで見ることができる。
これは極めて高いホスピタリティ精神の現れであると同時に、人前で披露できる精度の高い仕事への自信でもある。
次に板前のパフォーマンス。
生きた魚介類をそのままさばき、身から皮、骨までを無駄なく使い切るスピーディーかつ合理的な料理に製造業の洗練と技術立国の完成度が見える。
最後が安全性。
匠の技ともいえる板前の包丁さばきそのものも素晴らしいが、カウンターひとつ挟んで鋭利な刃物が客の前で踊っているという舞台設定は、犯罪多き銃刀国家では絶対に生まれてこない。
「さすがは1世紀前までサムライが刀をさして国家を統治していた武士道の国だよ」との締めくくりには苦笑したが、うなずける部分も多い。
アメリカの寿司屋でカウンターに座った客が板前の包丁さばきに次々とチップを払うシーンに何度か出会ったことがあるが、高度な技術や芸術性と安全性に支えられた和の文化に対するリスペクトなのである。
これは前々回レポートした円高のゆえんに対するUncle-Tomの解説にも通じるところで、僕たちはSUSHIの評価にもっと自信を持ったほうがいい。
異国を旅して寿司屋のカウンターに座ることで見えてくる日本があるのだ。
>> to be continued
※この作品はネット小説として2011年9月27日にアップされたものです。
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