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靴下と私🧦なんでタビオで働くのか?

こんにちは。ひなたぼっこです。
今日は少しばかり私の話を書いてみようと思います。

ニュースで入社式の様子が数多く取り上げられていた先週、弊社タビオにも4名の新入社員が入社しました。入社式の様子を見ながら、かつて自分が新入社員だった頃を思い出していました。


私がタビオに入社した理由

靴下工場に生まれた私

私の実家は、靴下の生産量・日本一の奈良県広陵町で靴下工場を営んでいました。
タビオには卸してはいなかったのですが、作った靴下は百貨店や個人商店など全国で販売していました。

働き者の祖父が一代で築き上げた靴下工場は、そんなに大きい規模ではありませんでしたが
朝早くから夜遅くまで機械を動かし続け、廃業するまでほぼ休みなく稼働し続けました。

実家の敷地内に建てられた工場には
機械がずらっと並んでいました。


機械を動かす職人は祖父一人だけ。
過去には弟子入りを志願した人も何人かいたようですが、全て断っていたようです。

従業員は祖母・母の3人。
あとは内職の方につま先加工や仕上げ(蒸気などをかけ靴下の形を整える工程)などをお願いして、商品を作っていました。
靴下の帯巻きや袋入れなど、最後の出荷前作業は私も保育園の頃からずっとお手伝いしていました。

私と妹の小学生の頃の遊びは、祖父の靴下配達についていくことでした。
近所に何件もある内職の家に車を走らせ、靴下がパンパンに入った袋を車に積み込みます。

私はその積み下ろしを手伝えなかったのですが(まだ小さく戦力外だったため)機械仕事も体力仕事もこなす祖父の背中はとても誇らしく、かっこよかったです。

靴下工場はだんだん終わりを迎える

私が高校生になった2013年頃から、実家の工場は靴下の生産量を減らすようになっていました。

海外で大量生産される安価な靴下が人気を集めていたため、昔のようにたくさん靴下を作っても売れなくなっていたからでした。


キャラクターやブランドの靴下ではなく、ノーブランドの靴下を取り扱っていた実家工場は売れ行きが伸びず
工場を稼働させても赤字スレスレ…いや、もう赤字の状態で運営していました。

かつて夜遅くまで機械を動かしていた時「機械音がうるさすぎる!夜寝れない!」と文句を垂れていたのに、そのうるささが恋しくなるほどでした。


そして2015年、ついに祖父は工場の廃業を決めます。
75歳と高齢になり体力的に続ける事が難しくなった上、後継ぎをたてるほど良い未来が見えなくなったからでした。
イギリスでの語学研修中に廃業のニュースを聞いた私は、思わず涙を流してしまいました。
なんとなく覚悟はしていましたが、やはり家業が終わるのはショックでした。

ホストファミリーにもプレゼントした靴下。
足袋に狛犬のデザインがとても好評でした


それから数年後…

実家工場の廃業から時は経ち、大学で英文学科に進んだ私は靴下とは全く関係のない仕事に興味を持ち始めます。しかし、色々あって夢を諦めることに。

周囲と同じように就職活動を始めることになるのですが、ここで再び靴下業界と出会うことになります。

「何年かぶりにタビオが新卒募集するらしい」

新卒採用を数年取りやめていたタビオが、私が就活した年度に採用を復活させたと言うのです。

タビオ株式会社も同じく、奈良県広陵町の靴下工場から取引が始まった会社です。
今でもこの町を物流起点とし、全国・世界に靴下を届けています。


私にとって、なんという奇跡でしょう。
行きたい業界も決まらず、あてもなくフラフラ過ごしていた私は、神にもすがる想いで受ける事にしました。


面接では、実家がかつて靴下工場を営んでいたこと。靴下の町で生まれ育ったこと。今、国産の靴下が売れなくなって、工場や内職する人たちがどんどん減っていっていること。
祖父が廃業した想いを背負うように、たくさんお話しさせてもらいました。

そうして無事合格。
この春、タビオ株式会社で5年目を迎えました。


タビオ株式会社のミッション

タビオ株式会社は「日本の靴下工場を守る」というミッションを掲げています。
タビオが全国・世界で靴下を販売し続けることで、守られる職人たちの技術や雇用があると考えています。

立ち上げた工場を自らの手で閉めた祖父のように、靴下工場とその職人たちが商売を諦めなければならない状況を減らし、雇用を生み出し、国内の靴下産業を発展させていくことに繋がります。


タビオで働く私の夢

私の夢は、靴下業界で働く全ての人が良い賃金をもらい、産業として靴下業界が発展していくようにすることです。

私一人ができることは本当に小さいと思いますが、この想いのもと皆様に良い靴下を一足でも多く届けられるよう、これからも頑張っていきたいと思います。

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