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『畏敬』 前編

自然の脅威を知らぬ者はそれを尊ばない。この上なく敬いこの上なく怯えた経験がない。


私もそう。自分がいる世界に自然があると勘違いしていた。


だが寝食を共にすればそこに恐怖が芽生える。


身一つで対峙した際、正気ではいられないのが自然で、その乱れた感情こそが畏敬の念へと繋がっていく。





◆目次

「大道芸人」
「環島」
「ポーラーバー」
「ベアプルーフコンテナ」
「北の原野へ」
「彼らこそ猛獣」
「文明と原始の狭間」
「フェアバンクス」
「ドットレイク」




【大道芸人】

冬の鴨川漁港は殺気立っている。遠投する事でカマスが釣れるのだがまずめ時を除けば昼間群がいる場所は限られておりみんなが同じ場所に投げる事で仕掛けが絡み罵声が飛び交う。

和気藹々とは程遠い釣り場だが我が友人はいつも冷静沈着で一切の揉め事に関わらす黙々と釣果をあげていく。元々の性格か培われたものか。最近は学ぶべきものを感じつつ同じみなもを眺める時間が増えてきた。

彼の名はりゅうたろう君。もう5年半の付き合いになるが苗字は知らない。実はそういった事は珍しくなく近所の行きつけの韓国料理屋のママとは親子のような関係で17年以上の付き合いになるがお互いに名前を知らない。私はそのおばあちゃんを“ママ”と呼び彼女は私を“お兄ちゃん”と呼ぶ。今後も名前を聞く気はない。

苗字は知らない友人・りゅうたろう君はプロの大道芸人で、スカイツリーのあるソラマチで行われたイベントに出演している彼を見に行った事がある。その技術のみならず観客を沸かせるエンタテイメント性も素晴らしく芸人としてのレベルの高さに驚愕したものだ。

そんなりゅうたろう君との出会いは一風変わったもので、2017年夏、LAX(ロサンゼルス国際空港)で羽田行きの便の搭乗待ちをしていた際、顔に気になる日焼け痕がある彼に声を掛けるところから始まる。

『自転車旅ですか?』

その日焼け痕が自転車のヘルメットのストラップによってできたものだと推察できるのは同じものが私にもあるからだ。

聞けばりゅうたろう君はカナダからメキシコまでの西海岸自転車旅を終えたばかりで初の海外自転車旅だったらしい。りゅうたろう君の旅に興味津々だったが搭乗直前だった事もあって『また日本に着いたら話しましょう!』と言って我々は飛行機に乗り込みそれぞれの席についた。

十数時間のフライトを経て飛行機は無事に羽田空港へと到着し我々は大型荷物の受取所の前で再会する。大量の機材を受け取り到着ゲートを出ると「タリーズ」があったのでコーヒーを飲みながら少し話をしていたが、お互いに長旅と長時間移動で疲れているので連絡先を交換し後日飲みに行く運びとなった。

数週間後、新宿にある「烏賊の墨」という佐渡料理屋で酒を酌み交わしつつそれぞれの旅や仕事の話をしたところ彼が大道芸人だという事を知り“ならば!”と早速ソラマチにその芸を観に行ったという訳だ。

彼と釣り場で会う事が多くなったのは2020年のコロナ蔓延がきっかけだ。仕事のキャンセルも増え時間ができた我々は釣りに傾倒していくがこれは全くの偶然で何か相談した訳ではない。

釣りのスタイルに多少の違いはあるが釣りたい魚をどうしても釣ろうとする執着心が似ているため飽きる事なく釣行を繰り返し、釣果や釣り場情報も日々交換するようになった。

いつの間にかコロナ蔓延からも3年の月日が流れ流石に我々も上達し80cmを超える鰤やドラゴン(大型の太刀魚)を釣り上げる事も珍しくなくなっていた。

旅はいつか終わるがそこで紡がれた縁は次第に形を変え続いていく。それが面白い。





【環島(ファンダオ)】

2007年公開の台湾映画『練習曲』をご存知だろうか?聴覚障害のある青年が台湾を一周する旅、所謂“環島(ファンダオ)”に挑む話で、この作品のヒットをきっかけに台湾では空前の自転車旅ブームが巻き起こった。世界最大の自転車メーカー・GIANTを生んだのも台湾でその会長が高齢で挑んだ環島も話題となり私も挑戦してみたくなった。

2017年3月、私は桃園国際空港に降り立ち700cのロードバイクを組み立てた。ニューヨーク-シカゴ自転車旅で使った機材で、ほぼ九州と同じこの島を2週間程度で一周するには丁度いい。

日本とアメリカ以外の国を走るのは初めてで英語圏でない事に多少の不安を感じていたが、過去に何度も訪れた経験もあり走り始めると外国である事を忘れ、新竹、台中、嘉義、台南、高雄と西海岸を5日間で南下し最南端の街・墾丁に辿り着いた。

台湾は約100km毎に街が栄えているので自転車旅の計画は立て易く環島が流行るのもよく分かる。その上、都市部を離れれば素朴かつ悠々とした空気に癒されるのでこれほど楽しい自転車旅もなかなかない。

私はこれまで“自転車旅は目的を達成するためにこの上ない苦痛を感じるもの”という常識で生きてきたので、こんな風にただ楽しいだけの海外自転車旅がある事はまさに青天の霹靂であった。

自分や環境、人生に変化を求めて初めて挑戦した海外自転車旅が2013年の北米大陸縦横断自転車旅だったので、難易度が低い環島に“挑戦”という要素はなくただ娯楽だけを感じていた。夏に控えているアラスカ自転車旅のための体力強化も目的の一つだったのでその点において環島が役立っているかは甚だ疑問だが兎に角楽しんで走っているのはいい事だ。

ただ台東、玉里、花蓮と東海岸を北上していく内に少し退屈に感じてきた。9号線は美しい海岸線を走りその海の向こうに与那国島、つまりは日本を感じる事に最初は感動していたが何十キロと走っている内にその辺りも忘れ長い長いサイクリングロードを走っているようにしか思えなくなってきた。

既に台湾一周の80%以上が済んでいるが何が変わる訳でもなさそうなので残りの道のりをさっさと終わらせて台北でゆっくり遊ぼうと思った。

花蓮で過ごす夜。BBQレストラン「Salt Lick」でビールを飲みながらプルドポークのバーガーに噛り付いているのはこの旅にアメリカを投影しているからだろうか。全く別の旅なので純粋に楽しめばいいのにどうにも苦難を求めてしまう自分がおり、自転車旅においてはマゾヒスト精神が染み付いてしまっている。

私は壁から突き出たような鹿の剥製を眺めながらビールを飲み続けていた。すると私と同じ様に環島に挑戦していると思われる外国人が入店してきてそのガイドがこの先の道のりについて説明し始めた。

『花蓮を出発してしばらくすると9号線が非常に危険な一車線道路になり断崖絶壁を縫うように走る事になります。しかし東海岸を走る車両にとっては非常に重要な道なので交通量も多くその危険な一本道を大型トラックやバスも使用せざるを得ません。皆様には我が社のバスにお乗り頂き安全な場所まで自転車ごとご移動頂きますのでそこはご安心下さい。』

私はその話を聞いた瞬間、ビールグラスをテーブルに置いた。多くの台湾人が熱狂する環島のハイライトは花蓮と宜欄を結ぶ海岸線の危険路にあると察した。環島にはやはり旅の喜びと苦しみが集約されていてガイドが危険だと言うこの区間に逃してはならない美があると何故か確信してしまったのだ。そして自分が既に走ってきた道のりの中にも美は隠されている気がしてこの危険路では絶対に振り返ってみたいとも思った。

翌日、花蓮を出発し9号線を北上するとあのガイドが話していた通りのめちゃくちゃな道のりが始まり、そこを走る車からも「一つのミスが死に繋がる」という緊張感が伝わってくる。ガードレールの向こうに飛び出せば数十メートル下の海岸でその生涯を終える事になるからだ。

岩山を掘っただけといったトンネルがいくつも続き車が自転車を追い抜くようなスペースもないので自転車は車と同じ速度で走らなければならない。路肩には落石も多く自分が今から通る道の安全確認を怠れば一瞬で落車し怪我を負う。もし後ろを走るドライバーの反応が遅ければ... 常にそんなリスクが伴う危険路で環島をツアーとして扱う会社がこの区間をスキップさせるのもよく分かる。

しかし本質的な話をすれば自然美とは安全な場所にあるものだろうか?環島と台湾を感じたければ花蓮-宜蓮間の9号線は避けてはならないし何度も自分がきた道を振り返ってみた。

そして想像してみる。今が真冬で雨か雪が降っていたらここはどんな世界になるのだろうか?心から怖い。

無事に宜蓮に着きレストランでビールを飲み始めた時、環島のドラマとここに来た意味を感じた。大きな目的があった自転車旅ではなかったが、この区間を走り自然美と恐怖が表裏一体である事、そしてそんな大自然を前にして自分がいかに小さな存在か、それを感じる事がこの旅の目的だったようだ。

翌日、宜蓮から内陸に入り台北を目指すと鈴鹿峠くらいの山越えが始まった。聴覚に頼って自転車を走らせていると頭上に違和感を感じてゆっくり立ち止まる。バイクが2,3台通り過ぎていっただろうか。そのエンジン音とタイヤ音が完全に無くなるのを待って頭上にいるものを耳で想像してみた。恐らく猿だ。

視覚に頼って答え合わせをしてみると木の枝に隠れた猿の群を確認する事ができる。自転車旅で野良犬や野生動物はあまり歓迎できないので近くに動物がいる事に気付けるのは大切な能力だ。

自転車という旅の道具は自然への極端な干渉を避ける事ができるので大自然に生きる動植物を観察する上ではいいが、あまり音がしない事によって動物との接触の危険性も高まる。よく自動車の前に鹿や猪が飛び出して跳ねられるというアクシデントがあるが、あれほど騒音を立てて走る自動車やバイクでさえも野生動物は避けてくれないので自転車は突っ込まれて当然かも知れない。

次に走るアラスカの場合、その動物はグリズリーやムースである事も考えられる。その遭遇は絶対に回避すべきだし台湾の山中で色々とイメージを膨らませてみる。自然界における自転車という乗り物の意味を考えさせられるいい時間となった。

台北に着く直前、高速道路に紛れ込んでしまうというトラブルはあったものの無事に台湾を一周し環島を終える事ができた。

台北のホテルに着く前にGIANTのディーラーがあったので梱包用ダンボールをもらおうとすると有料だった。別にいいのだが日本でもアメリカでもダンボールが有料だった例は一度もなかったので少し驚いてしまった。国が変われば常識も変わるのかそれともこの店が特別か。

全体的に台湾を自転車で旅するのは楽しくて天気が良ければ快適だが田舎は宿泊施設に難が多かった。それなりの金額を出せば都市部と変わらないホテル環境を手に入れる事はできると思うが、台中辺りで4000円出せばホテルだったところも東海岸では民宿やアパートの一室になったりする。

私が玉里で宿泊した宿は完全に人の家だったし、台東で泊まった宿はベッドの上からトイレのレバーをひねってフラッシュできるほど異常な構造をしていた。高雄の宿も上層階の人がトイレを流す度に“何か”が私の枕元の配管を通り過ぎて行く。何故下水管の真横にベッドを置いたのか。

笑える宿から笑えない宿まで色々ある台湾。ホテル以外の宿泊経験が乏しい私にとってはストレスに感じる瞬間もあったが日本とアメリカしか知らないので全ては新鮮だった。





【ポーラーバー】

2017年7月4日

45kgのダンボールを抱えて新宿駅新南口から成田エクスプレスのホームまで歩くと全身から汗が噴き出した。今までの自転車旅とは比較にならない荷物量だ。

白熊が自転車に乗っている「Bikke(※ブリジストンの子供乗せ自転車)」のロゴマーク付きダンボールはこれからアラスカの原野を走ろうというサイクリストにはあまりに皮肉で不穏だ。

このアラスカ自転車旅に使用する機材はGIANTの「GREAT JOURNEY 2017」で前後輪に4つのキャリアが取り付けられ人間の体重も合わせて100kg以上の負荷に余裕で耐えられる代物。アラスカでは自転車に生活道具、キャンプ用具、水や食料を全て積載して走る必要があるので今まで使用してきた通常のロードバイクでは話にならないし、未舗装路がどのくらいあるかも分からないのでマウンテンバイクの「GREAT JOURNEY 2017」を選択したのだ。

世界を旅する人は自転車にもっと投資しているが私はこの10万円で購入できる「GREAT JOURNEY 2017」で機材としては十分だと考えていた。

この旅に出る前、北参道のライブレストランに友人のライブを観に行ったが、そこで会った知人に『今回の旅は本気でヤバいと思うよ。』と真面目なトーンで話をされた。2016年のニューヨーク-シカゴ自転車旅以降私の旅を見守ってくれている人だが、今までの文明を走る旅とは全く異質で自転車旅の経験がない人にも今回の旅の危険性が伝わるようだ。

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