不本意なる英雄——映画『タクシー・ドライバー』について

 トラビスは日記を書く。彼は言葉を持っている。しかし彼は想像力に欠ける。直情的に振る舞う。それは矛盾ではないのか。彼は本を読むこともないようだ。なぜ、彼は日記を書くようになり、今もなお、書いているのだろう。そのあたりは内面性ということと書くということの関連として非常に興味がある。

 ところでその想像力と自制心にやや欠けているがゆえに、彼は孤独とさみしさにとらわれていく。その演出と演技は素晴らしかった。都会の暗部を日々目にしながら、次第に荒廃し、急進化していく彼の感情と行動。彼は夜の街で日々、己の正義を問われているのである。そして、彼は不穏なる計画を立て、着々と準備や訓練を進める。その過程の驚くほどの迷いのなさや効率性といったところはむしろリアリティがある。とてもよく作り込まれている。

 しかしながら、物語を見通したあとで、問われねばならないことは、彼の行いは英雄的なものであったのかということである。確かに彼は少女の両親から感謝され、新聞でヒーローとして大々的に取り上げられる。しかし、それは「親」や「教師」という支配者の説く正義でしかない。少女は結局、再び「家庭」に、「学校」に戻された。本当にそれでよかったのか。そのような場所にいたたまれず、彼女は街頭に立っていたのではないのか。事件のあと、彼女は何を思ったか。どう生きているのか。それは、最後まで描かれない。

 そもそも、トラビスが胸に秘めていた計画とは、大統領候補の暗殺ということではなかったのか。それは卑小な大衆的な正義やヒロイズムでは語り得ないものだ(そのようなテロリズムは、公開当時の1976年、政治運動の退潮期を迎えた全世界にあって、生々しいリアリティがあったはずである)。

 いや、この映画は、権力に反逆し、そのもとでのうのうと暮らす大衆を軽蔑する、ラディカルな政治的・革命的意志を持ちながら、結局大衆的なヒロイズムに回収されざるを得ないひとりの男の悲哀を描いていると考えるべきか。そうであるならば、この映画は、反逆の意志、破壊の願望を抱きながら、社会にとって望ましい物語に回収されていってしまう男の悲劇を物語る作品として、高く評価されるべきである。

 だが、おそらく製作者の意図はそこにないのであろう。なぜなら、少女に対してはトラビスも、売春をやめて親元に帰るべきだ、と極めて「まっとう」なことを言っているからである。ラストシーンにおいて、トラビスが絶望しているのだとしても、それは何かを達成しても何も変わることのない世界とか人生といったものに絶望しているのであって、反逆を希求しながらも、英雄として偶像化されたこと、あるいは彼をそのような物語に回収してしまう権力や社会に絶望しているのではない。

 トラビスの思想や感情のこのようなねじれが、彼のリアリティを失わせ、物語を不完全燃焼にしてしまった。

 彼をヒーローとしてはいけない。彼はヒーローではないし、ヒーローになりたかったのでもない。そうでありながら、ヒーローとなってしまったのなら、不本意にもヒーローとされてしまうことの苦悩をもっと描かなければならない。

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