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「車でお遍路」第87番札所 長尾寺(静御前の得度、「長尾の観音さん」と親しまれる札所)

こんにちは、旅いこかです。

四国八十八箇所巡礼、弘法大師との「同行二人」の旅、87番目のお寺は、

補陀落山ふだらくざん 観音院かんのんいん 長尾寺ながおじ


86番札所の志度寺から約7.4㎞、車で約15分の場所、

車でお遍路も、結願までいよいよ後2札所。

志度寺から長尾寺までの道程は、志度から徳島県へ繋ぐ県道3号線をほぼ南下するだけ。田園地帯を抜けて、香川県と徳島県の県境となる讃岐山脈方面へ向かって走ると住宅街に静かに佇む長尾寺に到着。

第86番札所志度寺から第88番札所大窪寺までの3号線で向かうこの道は、お遍路の終盤を様々な思いで進む「結願けちがんの道」と呼ばれて「美しい日本の歴史的風土100選」にも選ばれている。

長尾寺には、毎年一月七日に行われている伝統行事大会陽だいえよう福奪い」は、弘法大師伝説が今に受け継がれているものと言います。
また、源義経の側室静御前が剃髪得度したお寺でもあります。

では、弘法大師伝説が今に受け継がれる伝統行事のある「長尾寺」へ参りましょう。

本堂と大師堂はともに個性的な姿で横に並んでます


ご詠歌

あしびきの 山鳥の尾の 長尾寺 秋の夜すがら 御名を唱えよ


お参りする前に知っておいた方が良い知識

歴史

  • 天平11年(739年)、この地を巡錫中の行基菩薩は、霊夢を感じて道端の柳の木で聖観世音菩薩を彫り、御本尊として堂宇に安置
    法相宗の寺院として開基

  • 遣唐使として渡唐前の弘法大師は、この地を巡錫中、御本尊に成就を祈願して年頭七夜の護摩秘法を修した

  • 天長2年(825年)、唐から帰朝した弘法大師は、感謝の意を表すため再度長尾寺を訪れ「大日経」を一石に一字ずつ書き写した供養塔を造立して堂宇を再興、その際に法相宗から真言宗改宗

  • 天正年間(1573-1592年)天正の兵火で本堂以外を焼失

  • 慶長年間(1596-1615年)高松藩主生駒公により再興、「長尾観音寺」と称する

  • 元和元年(1615年)讃岐藩主松平公が堂塔を寄進、讃岐七観音随一の寺と定め、真言宗から天台宗改宗

  • 元禄6年(1693年)、「観音院」「長尾寺」と称する


弘法大師伝説

弘法大師は、遣唐使として渡唐前に長尾寺の御本尊に成就を祈願して年頭七夜の護摩秘法を修した。

その護摩秘法を修した七日目の夜に、衆生に護摩符を丘の上から投げて授けたという伝説が 今日の毎年1月7日に盛大に開催される伝統行事大会陽だいえよう福奪い」として受け継がれているという。


「仁王像」伝説

長尾寺の仁王像は、大阪で彫られて船で志度浦まで運ばれたが、そこから長尾寺まで陸路を運ぶ者がいない。

そこで、当時の住職である名僧の桂同法印が仁王像に向かって念じたところ、仁王像は法印の命ずるまま長尾寺まで歩いたという。


静御前しずかごぜんの伝説

源義経の側室であった日本三大美女ともいわれる静御前は、舞の名人であった母磯野禅師から教わり、宮中で披露した際に後白河天皇から「日本一の舞姫」と称賛されるほどだった人物。

義経と兄頼朝との京都の対立では、都を落ち義経と別れることとなった静御前は、各地を流浪、その後義経との間に産まれた子が男の子であったために頼朝の命で殺され自暴自棄になり自殺を図ろうとする

義経が亡くなる前年の文治4年(1188年)、母磯野禅師の故郷、そして義経への恋しさのあまり義経が活躍した屋島源平合戦跡を弔うためにも、二人で讃岐へ行き長尾寺を訪ねた

当時の第9代住職宥意阿闍梨は、二人の悩みを尋ね「これまでのことはすべて忘れ、新たな人生を歩みなさい」と諭したという。
二人は素直に受け止め、得度(出家)することを懇願。

二人は剃髪をして得度をし、静御前は「宥心尼ゆうしんに母磯野禅師は「磯禅尼いそのぜんにという名の尼になったという。
その剃髪の際に落とした静御前の髪が長尾寺の剃髪塚に納められている

静御前剃髪塚


寺号について

  • 山号について
    ・・・第86番札所志度寺と同じ山号。
    補陀洛ふだらく」とは、観世音菩薩の理想の聖地であるインドの南海岸にあり、その世界観を示していると思われる

  • 院号について
    ・・・聖観世音菩薩を祀ることから「観音院」としたと思われる


ご利益

  • 御本尊の聖観世音菩薩
    ・・・
    迷いや苦しみや災難から救いを求める全ての人に手を差し伸べる現世利益げんせいりえきの仏さま


御本尊・ご真言

御本尊:聖観世音菩薩
ご真言:おん あろりきゃ そわか


見どころ

  • 経幢2基 【重要文化財】
    ・・・西側が弘安6年(1283年)、東側が弘安9年(1286年)、に建立。経幢とは、写経や経文を埋納保存する施設、供養の標識であったという

  • 本堂
    ・・・御本尊に聖観世音菩薩を祀る 弘法大師伝説より受け継がれる毎年1月7日に盛大に開催される伝統行事「大会陽だいえよう福奪い」は本堂前で行われる。

  • 大師堂
    ・・・宝形造りの頂部には四国霊場最初で最後の相輪があり、虹梁や木鼻の繊細な彫刻は見ごたえがある。

  • 東門
    ・・・高松市栗林公園にあった正門として延享年間(1744-1748年)に建築、中国語で幽谷への入口を意味する「嶰ノ口御門」と名付けられた。大正2年(1913年)に改築、当時は長尾寺の正門であった。

  • 静御前剃髪塚
    ・・・先述「静御前の伝説」参照、長尾寺の近くには、静御前化粧の井戸、義経の形見の太鼓「初音」を沈めたという鼓が淵、静御前が住んでいた庵跡の静薬師、などがある。

山門の手前に建つ2基の経幢


写真


次は、今回のお遍路最終となる結願の札所、第88番札所大窪寺おおくぼじへ参ります。

2022年8月24日投稿
2022年10月12日改訂

合掌

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