18年かかった宿題ーインドネシアでバティックを学んで
「これが最後の作品ね。どんな色で仕上げる?」と先生は尋ねた。
1997年末から1998年1月まで、わたしはジョグジャカルタの国立バティック研究所で、インドネシア・バティックを習っていた。約3週間かかって2つのコースを取り、その一枚がわたしの「卒業」制作だった。
バティック研究所刊行の本。
表紙には、ジョグジャカルタの伝統柄「スメン模様」が使われている。
一口にインドネシア・バティックといっても、バティックにはいくつかの様式があり、モティーフや技術は地域によっても違う。勉強する場所にジョグジャカルタを選んだのは、ここがスルタンのいる古都で、中部ジャワのバティックの本場だから。
一般に広まる前のバティックは、王族や貴族の衣装として王宮の女性たちが一枚ずつ手作りで制作してきたもので、ジョグジャカルタやソロなど中部ジャワのバティックは、王宮を中心に発展している。
すっかり新しくなっていたバティック研究所の玄関。
制作したバティックを使った洋服が展示されている。
研究所の講座は、製作実習を軸に、バティックの定義や歴史といったことから染色の原理・薬品(染料)の使い方などを学ぶ。講義のほとんどはインドネシア語で、ときどきジャワ語がまじる。まったくの個人レッスンで質問は自由にできるので、わたしの質問の大部分は用語に関するものだった。
もはや綴じ糸もはずれてボロボロの辞書。
どこに行くにも持って歩いたので、捨てられない。
バティックのモティーフのなかには、ジャワの文化と関わりが深いものが多い。ヒンドゥー教の世界観やジャワの伝説などを外国人にどう説明したものか、講師の先生方も戸惑う場面があったが、根気よく親切に教えてくれた。
「ソパン、ソパン」(お行儀よく、ね)。一番身近に指導を受けたエンダン先生は王宮近くに住む人で、インドネシア語の使い方や所作についても、いろいろ教わった。
手描きバティックのロウ置き作業。(ダナル・ハディ・バティック博物館)
バティック制作といったとき、まずイメージするのは手描きでロウを置く姿だろう。しかし、バティックをつくるためには染色や脱ロウの工程も大切だ。講座では、デザインや色の決定から脱ロウまで、一通りの制作工程を体験、または見学することができた。
バティックの質はロウ置きで決まる。研究所では、ベースになる下絵を先生に型押し(チャップ)してもらい、それをチャンティンという手描きの道具を使って仕上げて行くので、生徒が多少失敗しても、一応の作品になる。
ロウ鍋とバーナー。右にある薄茶色の塊がロウで、削って溶かしながら使う。(ダナル・ハディ バティック博物館)
しかしチャンティンを扱うには経験がものをいう。火にかけたロウ鍋から、ロウを少しずつすくって線を描いていくのだが、温度が低いとロウが固まってしまって布に描けないし、高すぎるとロウが流れてしまってデザインを壊してしまう。
ロウ鍋の火加減に気をつかいながらチャンティンをもつのだが、慣れるまでは満足に線を引くことすらできない。息を止めて、ゆっくり描く。余分なロウをよく落としてからでないと、チャンティンをつたってロウの滴が布に落ちる。ロウの部分は染料に染まらないので、本来のデザイン以外にもロウが残るのにはとても困った。
古い布をひざにかけてはいたけれど、この時期に着ていたわたしのスカートは、どれもロウをこぼした跡があった。
ロウ置きと染色のプロセスを何度か繰り返した後は、いよいよ脱ロウである。ぐらぐらと煮立ったお湯の中に布を入れてロウを溶かす。 研究所では木の棒を使って脱ロウをしていたが、ハンカチ程度ならともかく2~3mの布の脱ロウをするのは相当に難しい。
あまりかき回すと布が破れてしまうし、不十分だとしたロウが残る。ほとんどの場合、脱ロウは講師の先生にお願いしたが、見事な職人技だった。
水洗いを済ませて布を乾かしていると、通りかかった研究所の人びとがいろいろ声をかけてくれる。「いい具合に染まったね」 「この色いいじゃない。染料は何を使ったの?」などなど。
みんなバティックが好きな人ばかりなので、布の話に花が咲く。本づくりもそうだが、ものをつくる人同士に通じる、何かをつくりあげた喜びがそこにあった。
これがわたしの卒業制作。
押した型に沿って色を差し、その上にろうをかぶせて地色を染める。
「先生、わたし、いつか戻って来ます。そうしたら、また教えてください」。そう言って別れたのに、インドネシアとの縁はその後なかなかつながらなかった。
1997年から始まったアジア通貨危機は、東南アジア各地の政治や経済を大きく混乱させた。インドネシアでは通貨ルピアの大幅切り下げなどで物価が上昇、国民の不安や怒りは全土でデモや暴動になって現れ、30年以上にわたってこの国で独裁を敷いてきたスハルト政権を崩壊させた。
2000年代に入ってからは、政情不安をついてイスラム過激派が勢力を増し、バリ島や首都ジャカルタほかで爆弾テロが連続して起きるようになった。
一方、帰国してからのわたしの再就職活動は困難を極めた。新卒も職探しに困る不況の時代に、アジアでふらふら長旅をしてきたバックパッカー上がりに仕事の口はなく、ようやく見つけた職場は、日付が変わってから家に帰るほど忙しかった。そのうち過労で体調を崩し、旅行どころではなくなった。
そして2006年には、ジョグジャカルタをマグニチュード6.3の大地震が襲った。死者5千8百人超、負傷者約13万8千人という大災害。心配で、お見舞いの手紙を研究所に送ったけれど、返事がないので無事に届いたかどうかすらわからなかった。
先年、ようやく当時の先生たちと再会を果たした。名前ももう覚えてはいないだろうと思ったのに、ホテルから電話をかけたらヘンドリ先生はすぐ迎えに来てくれただけでなく、当時研究所にいた講師の先生方に次々に連絡をとってくださった。一番親しかったエンダン先生は、もう退職されていて、ご自宅で温かく迎えてくださった。
「先生、これ覚えてますか? 教えていただいた、最後の一枚」
「覚えてるわよ、当たり前じゃないの。一所懸命作ったんだもの。…いい色になったわねえ」
そう、手で生み出したものは決して忘れることがない。18年ぶりに再訪の約束を果たして、わたしはやっと宿題を提出したような気分になった。
結局、バティック作家にも研究者にもなれなかったけれど、ずっと宙ぶらりんだった気持ちも、これで卒業できるような気がした。
※研究所にいた当時の写真はすべてフィルムなので、ここで使ったのはその後の訪問で撮影したものです。
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