旅先で、ごちそうになる側の作法
外国に行き始めたのがアジアだったので、「国力の差」は旅先でもついてまわる問題だった。1990年代のアジアでは、日本は突出したお金持ち国だった。
自分では節約旅行を気取ったところで、用事がないのにふらふら旅をすること自体、ずいぶんと恵まれたことだ。日本から来たわたしは、地元の人から見ると、分不相応なお金をもつ旅行者に見えたはずだ。わたしの努力や才覚などとは一切関係なく、たまたまわたしが生まれた国の経済力のために。
お金を払わせてもらえない居心地の悪さ
もてるものが多く払う価値観がある国では、原則的に割り勘はしない。年長であるとか、社会的な地位が上だとか、性別なら男であるとかいった条件で、誰かがその場の勘定をひとりでもつのはごく当たり前で、ごちそうされる方も過剰に恐縮したりはしない。
なんとなれば、次の機会にごちそうする側に回ることもできるし、別な場で自分が年かさだったり面倒をみる立場であればおごることになり、そうやって社会は回っているからだ。
男性の旅行者たちは、ちゃっかりした人につけこまれることもあったらしいのだけれど、女のわたしはそういうこともなく、なんとなく自分が社会の序列からはみ出した存在なのを感じないではいられなかった。
地元の習慣に従って、年長の男性の好意に甘えることもあったけれど、年収はきっとわたしの方が多かったはずで、どう振る舞ったらいいのか迷うことも少なくなかった。「ごちそうさせてくださいね」ともしそこでわたしが言ったら、相手の顔をつぶすことになりかねない気配があり、特に家に招かれるときには、かれらの持ち出しが多くならないように手土産に気を配った。
今だって世俗のおつきあいになれたとは思わないが、若くて世慣れていなかったころは一層で、なんだかしかるべき段階を踏まずにお金をもってしまったような居心地の悪さがあった。有り体にいえば、成金である。
「まれびと」として、もてなしに応える方法
しかし長旅を続けているうちに、ごちそうになるばかりでは心苦しいと感じるのも、ある意味でお金にこだわった考え方だと思うようになった。その場を楽しくする話題を提供するなり、歌や踊りを見せるなり、写真を撮って後日送るなり、受けたもてなしに謝意を示す方法はいくらでもある。
日本には古来、外部からの来訪者「まれびと」(客人)に食事や宿を提供して歓待する習慣があった。アジアでもそうで、どのみち旅行者を家に招いてくれるような親切な人たちは、経済的な利益を期待しているわけではない。
そんな風に考えるようになってから、わたしは「自分の説明キット」をもって歩くようになった。日本に観光に来る人は本当に限られた時代だったから、日本の観光名所の絵はがきや、自分の生活環境のスナップ写真などを小さなアルバムにまとめて、新しい人と知り合ったときに見せることにした。
日本の食べ物や雪の景色は、どこにいっても関心をひき、ことばが十分でなくても話題に困ることはなくなった。わたしのように歌も踊りもできない不調法者でも、少しの工夫でその場を楽しくすることができる。
善行を施すことで徳を積む思想のあるところでは、親切を受ける側にもそれなりの作法があると、今は思っている。
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