見出し画像

小説よりエッセイ

いつからか小説よりエッセイが好きになって、今はほとんどエッセイしか読まない。小説は、結局作り話で本当の話ではないんでしょ、という擦れた見方をしてしまう。

吉本ばななさんの小説は若い頃大好きで、たくさん救われたり、癒されたりしていたけど、やっぱり今はエッセイの方が好き。『人生の旅をゆく』とか、noteの『どくだみちゃんとふしばな』とか。久しぶりに小説集の『ミトンとふびん』を読んだけど、主人公が若いなーと思ってしまった。そういう若い視点と感覚で、気持ちや感情を生き生きと表現できるのはすごいし、納得できる言葉もたくさんあるけれど、年を取って擦れっからしになってしまった私の心にはしみ込んで行かず、ただ表面を滑って行く感じ。若い頃に読んでいたら、きっと強く共感し、学ぶことの多い作品だっただろう。

そう、私が本に求めているのは、共感と学び。そしてそれらは、作りものではない現実の世界からでないと得られなくなって来ているらしい。テレビ番組や映画なら、作りものでも問題なく受け入れられるのはなぜだろう?エンターテイメントとして、ただ楽しむためのものと割り切っているからだろうか。漫画も問題ない。でも、小説だけは、エンターテイメントとしても、もう純粋には受け入れられない。

若い頃には心にしみ込んでいた小説が、表面を滑って行く感じになったのは、心に膜ができてしまったから。現実の辛い世界を色々と経験し、くぐり抜けて来たら、何事も吸収する純粋な心はすり減って、撥水加工されたような膜が心を覆ってしまった。でも、エッセイならその膜をすり抜ける。人には誰でも色々な経験があり、様々な人生を送っている現実があることを垣間見れて、何となく安心する。

エッセイも、できれば同年代か年上の人の書いたものがいい。旅に関するものだともっといい。そこには、心の膜をくぐり抜けて奥深くまで届く、共感と学びがふんだんにある。でも、このあまりにも限定された本の嗜好は、年を取って好みがはっきりして来たのか、それとも視野が狭く偏屈になってしまったのかが微妙なところ。いつまでも純粋ではいられなくても、柔軟さと広い視野は持っていたいものだけれど。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?