我々は生きているのだろうか?

 より良く生きる、それは我々が掲げる偉大なるテーマのひとつであろう。そのために必要な、結婚、趣味、ワーク・ライフ・バランス、そして仕事のやりがいなど、あらゆることを気にして『いかなければいけない』。
 元来私達は、『必死』だった。感染病や(今の価値観からすれば)早すぎる寿命で死にゆく隣人を見て、誰にも必ず訪れる死を意識しながらも、生きて『いかなければいけな』かった。なぜ生きていかなければいけないか、そんなこと説明する必要はないくらい、生きるのに懸命だった。
 古くは縄文時代、平均寿命は今の半分以下だったと言われる。そんな限られた時間の中で、マンモスとか、うさぎとか、シカとかを狩っていた。どんぐりを拾ったりして時間を消費していた。
 近くは昭和時代、男たちは戦争にいかなくてはいけなかった。たくさんの爆撃が私たちの街を襲った。そこにいた誰もが未来を悲観した瞬間さえ、建築家は家を建てた。芸術家は絵をかいた。作曲家は譜面を睨んだ。
 それは決して、自分のためだけの活動ではない。重くのしかかる生命の危機を、うつくしく、そしてまた、泥臭く、回避していくための『その場しのぎの策』であったろう。
 自分らしく絵を描かなければいけない。それは、国家権力によって課せられた仕事であり、自分の生命、家族を守るための手段でしかない。あらゆる重圧の中で、自分を押し殺して、自分を捻り出して、表現はなされるのだ。私はそんな『必死』な状態から産まれたものこそが芸術だと言い切れる。
 つまり、ぶつかり合いや葛藤こそがモノをブラッシュアップする。ひとりの脳内では決してうまれ得ない、他人の批判やクライアントのプレッシャーに晒されて、舌打ちをしながら、不満げに、自分の理想からは少し遠いものを形づくる。天才と呼ばれる人は、こんなものはダサいと思いながら、ポップに仕上げたつもりながら、客観的にみればかなり面白いものをつくる。
 それは『私の理想』からは遠いけれども、『私たちの理想』に近いデザインとなって、それでいて革新的なイメージとして現れる。葛藤とは、洗練である。
 そして人は、前時代的な価値観の踏襲をしながら、前時代的な価値観を否定する。これらは矛盾しない。前時代的な価値観の中に、新しい発見がある(むしろ人は過去から以外に学べない。見たもの以外を想像→創造できない)からだ。それでも人は、いまの一般的構造を受け入れてなお、それを壊したくなる。想像の原点は破壊への衝動だろう。重圧の中で、求められているものからの反発として、新しきものは産まれる(当然それは過去の集積からの模倣にすぎないのだが)。
 『必死』であることは、個性を伸ばすバカらしい教育に関係なく、個性的な作品を作る。作品とは、まさしく人生そのものだろう。濃密な人生の裏付けなくしてその作品の価値は測れない。もちろんここで言う作品は、形なきものも含まれる。あなたの人生が影響を与えたもの、その全ては作品といえる。その意味で、人生とは、まさしく作品そのものだろう。
 話は変わるが、今コーヒー屋は、なぜコーヒーをいれるのか?それは『必死』な営みだろうか?今目の前のコーヒーの品質に自身を持てるだろうか。エスプレッソを、ひとつの作品として抽出できているだろうか。流れ作業の中にうつくしさはあるだろうか。
 そしてあなたの人生に存在する理由はあるだろうか?この問いに答える間もなく、次のことを考えなければならない。うつくしいコーヒーを抽出しなくてはならない。そのために常に挽目が適正であるか疑問に思い続けなければいけない。人に価値を理解してもらわなくてはいけない。世界を変え続けなければいけない。愛し、愛され続けなければいけない。そのための努力を惜しむ時間はとても少ない。
 生きるか死ぬかという極限の最中、次の光を探すことで、まだ見ぬ作品を作り上げる。人とは元来『必死』なのだから、そのことを忘れてはならない。時間は有限である。
 


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