美味しくないコーヒー

 私が『美味しくないコーヒーは飲むべきではない』というときと、『美味しくないコーヒーは存在する意味がない』というときの、『美味しくないコーヒー』という語の意味はそれぞれ異なる。

 主観的な存在であるコーヒーにおいて、まさに主観的形容詞である『美味しくない』という表現が直接なされていても、その評価の中にはある種の客観性が含まれているように見える。

 『美味しくないコーヒーは飲むべきではない』の『美味しくないコーヒー』は、私の主観的な『美味しくない』という語に内包されている、“スペシャルティコーヒーの価値観に馴染み、抽出や焙煎に関わる者からなる集団”を想定し、その仮想の経験知の集積の中で導き出されるであろう“客観的結論”として『美味しくない』という評価がなされるコーヒーのことを指している。

 まさにそれは、主観的な価値観の中に客観性が存在するように錯覚する。しかし、その“集団”こそが、私の価値観を代弁させるにあたって都合のよい恣意的に想定された集団であることは認めねばならない。

 珈琲ではなくcoffeeをこのみ、炭火焙煎ではなく浅煎りをこのみ、やわらかくなめらかで、美しい質感を愛する私が、恣意的に想定した集団による評価である『美味しくない』など、もはや私の主観的な感想にほかならないだろう。ただ、それが口から発せられるときに、私はたしかに『客観的な評価として』という(まさに主観的な)ニュアンスを含ませているのだ。

 さて、『美味しくないコーヒーは存在する意味がない』の『美味しくないコーヒー』は、(その主観的という語が直接意味するような)主観的な評価である。あらゆるシチュエーションや、人柄、タイミングにおいて、美味しくないと直感的に感じるものを指す。それは、“集団”による評価以上に、意思として真に主観的であろうとする姿勢があらわれている。

 かくして、美味しくないコーヒーは語られるのだ。

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