すべてを賭けて ロシアワールドカップ旅日記15
7月2日(月)モスクワ→ロストフ・ナ・ドヌ
朝が訪れても大騒ぎのモスクワの街を離れ、タクシーでドモジェドヴォ空港へ向かった。
僕は5時40分発のウラル航空の飛行機で、ベルギーvs日本戦が行われるロストフ・ナ・ドヌへ飛ぶ予定だった。しかしチェックインカウンターへ向かうと、「チケットはない」とお姉さんに言われてしまった。
どうやら、システム上の手違いで、チケットがちゃんと予約できていなかったらしい。その飛行機はすでに満席で、ロストフへ行くには、8時5分発のS7航空の飛行機を新たに取るしかないという。
その航空券が、約2万ルーブル、3万8000円近くもするというから驚いた。
どうしよう、と思った。ロストフへ行くには、この航空券を買うしかない。けれど、いくら出発直前の購入とはいえ、3万8000円というのは高すぎる。
無理に行かなくてもいいのではないか、という考えが何度も頭をよぎったが、迷いの末に、購入することを決断した。
「なにか」を見られるかもしれない、と思ったから。ロストフへ行けば、「なにか」に出会えるかもしれない……。それになにより、あのとき行っておけばよかったと、後悔するのだけはいやだった。
3万8000円で購入した航空券を受け取ると、胸のつかえがとれたような、清々しい気持ちになった。もういい、すべてを賭けてロストフへ行ってみよう、と。
モスクワを飛び立った飛行機は、2時間ほどで、日本とベルギーの決戦の地、ロストフへ降り立った。
ロストフの空港は、日本の地方空港によく似た、こぢんまりした空港だった。ここはウクライナ国境にも近いロシア辺境の地なのだから、それも当然かもしれない。
外へ出ると、雲ひとつない美しい青空が広がっている。気候も意外と涼しく、過ごしやすそうだ。
まずはシャトルバスに乗って、街の中心へ向かう。ロストフは、元々訪れる予定がなかったばかりか、『地球の歩き方』にも載っていない。まさに僕にとっては、「未知」の街だった。
車窓には一面の小麦畑が広がっている。まるでアメリカ中部の農業地帯にワープしてしまったみたいだ。
街の中心でバスを降り、昨日予約しておいたホステルへ向かった。ベルギーvs日本の試合を観た後は、深夜の寝台列車でモスクワへ戻る。ほんのちょっと寝るくらいだから、ホテルではなく、安いホステルを予約したのだ。
すぐにホステルを見つけ、半地下構造になっている中へ入ると、若い女性が出迎えてくれた。僕の部屋は、6人用のドミトリー。日本のサポーターが集まっているのかと思ったら、なんと客は僕ひとりだった。
2段ベッドの下段に座ると、眠気を催してきた。考えてみれば、昨夜はモスクワの街で過ごして、一睡もしていなかったのだ。
夜のキックオフまで時間はたっぷりある。僕はしばらく、ベッドで眠ることにした……。
3時間ほど寝てから目覚めると、横のベッドに日本人の中年男性がいた。どうやら、この部屋に2人目の客が来たらしい。
彼は、これから少し寝てスタジアムへ向かうそうなので、今夜の日本の健闘をお互いに祈って、僕はホステルを出た。
ロストフの街には、夕方の光が溢れていた。僕は試合の時間まで、このロストフという未知の街を、ゆっくり歩いてみたかったのだ。
それなりに大きな街だが、全体的にレトロな雰囲気が漂い、田舎っぽさを感じさせる。街を走るトラムには古い車両も多く、まるで旧ソ連時代のようだ。
小さな広場には、詩人プーシキンの像が立っている。あとは、古い劇場があったり、小さな遊園地があったり。これといった観光スポットがないせいか、いままで訪れた街に比べると、地味な印象を抱く。
でも、その地味さが、連日の移動に疲れた身体には、不思議と心地良かった。見るべきところがないので、その分自由に街を歩けるのだ。
静かな夕暮れのロストフを歩きながら、僕は奇妙な気持ちになった。もしも今夜の日本の試合がなかったら、この街に来ることは永遠になかったのかもしれない。訪れるはずのなかった街を、いま訪れている。そこにはなにか、旅というものが持つ不思議が隠れているような気がした。
スタジアムへ行く途中、1組の母子に出会った。2人の女の子が、自分たちで描いたらしい、日本の絵を手にしている。絵に描かれているのは、桜、竹、お寺、着物を着た女性だ。着物が韓国のチマチョゴリっぽいのが気になるけれど、これがロシアの田舎町の女の子がイメージする「日本」なのかもしれない。
一緒に写真を撮ってあげると、2人ともすごく嬉しそうだった。もしかしたら、彼女たちが日本人に出会ったのは、今日が初めてのことなのかもしれなかった。
途中のパン屋で買った菓子パンを「夕食」として、スタジアムへ向かう。赤いユニフォームを着たベルギーのサポーターが増えてきた。彼らは大集団で、応援歌を大声で歌っている。
それに比べると、日本のサポーターは明らかに数が少ない。ちらほらといることはいるが、ベルギーサポーターの迫力にみんな圧倒されてるみたいだった。
すると、青いユニフォームを着た老齢の男性が走ってきて言った。
「やっと日本人見つけた!今日のチケット、全然売れてなくて、半額で叩き売りされてるんだよ」
あるいは、日本が決勝トーナメントまで行くとは予想していなかった人が多く、日本へ帰ってしまったサポーターが多いのかもしれない。
アゾフ海へと注ぐドン川を渡り、ベルギーvs日本の行われるロストフ・アリーナに着いた。
それでもスタジアムの中へ入ると、ベルギーや日本のサポーター、そして多くのロシアの人々で賑わっていた。
日本が勝っても負けても、この試合は僕にとって、この旅で最後のワールドカップ観戦になる。
この旅では、カザンで韓国の劇的勝利、モスクワでロシアの劇的勝利を見ることができた。としたら、最後はこのロストフで……。
いや、「なにか」を見せてくれればいい、と思った。そう、「なにか」に出会うために、このロストフまで来たのだ。心を熱くさせてくれる「なにか」に……。
そのとき、ぽっかり空いたスタジアムの上には、「なにか」が起きることを予感させる、紫色の空が広がっていた。
旅の素晴らしさを、これからも伝えていきたいと思っています。記事のシェアや、フォローもお待ちしております。スキを頂けるだけでも嬉しいです!