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夜、幸せの大地の上で ロシアワールドカップ旅日記14

7月1日(日)モスクワ

スペインvsロシアの試合が行われるルジニキ・スタジアムに着いたのは、キックオフの2時間ほど前だった。

午前中にヴェルニサージュという市場へ、お土産のマトリョーシカを買いに行ったときは曇っていたけれど、午後になって青空が見えてきた。今日もまた、サッカー日和と言えるかもしれない。

日曜日、それも地元ロシアにとって初のベスト8進出を賭けた試合ということで、スタジアムの周辺は祝祭感に溢れていた。ロシアの三色旗を全身にペインティングした男性、派手な民族衣装に身を包んだ女性、大きな国旗を振りながら歩く集団……。行き交うみんなが笑顔で、こちらまで幸せな気持ちになってくる。

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ルジニキ・スタジアムは今大会の決勝戦会場でもあるが、いままで訪れた個性豊かなスタジアムに比べると、比較的地味な印象のスタジアムだった。それは歴史の長さからくる地味さなのかもしれない。

そのルジニキ・スタジアムの中へ入ると、この日の席は2階のゴール裏にあった。決して観やすい席とは言えないが、この試合を生で観戦できる幸運を考えると、贅沢は言っていられない。

すぐにスペインとロシアの選手が入場してきて、スタジアムは大歓声に包まれた。7万8000人の大観衆が一斉に声を上げているのだ。それはスタジアムが揺れるほどで、その大多数は地元ロシアのサポーターのようだった。

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やがて、ロシア国歌が流される。その重厚なクラシック音楽のようなロシア国歌を聴きながら、僕は心を決めていた。今日ばかりは、僕もロシアを応援しよう、と。

この旅では、ロシアの人たちに何度も何度も助けられてきた。たった1週間ほどの間に、こんなにも優しい出会いがたくさんあった旅は、いままでになかったかもしれない。そのロシアの人たちへ「恩返し」をするとすれば、きっとこのルジニキ・スタジアムでしかあり得ないのだ。

ただ、ロシアが勝つことは難しいだろうな、とも思っていた。対戦相手は優勝候補のスペインなのだ。下馬評でもスペイン有利という予想がほとんどだ。奇跡でも起きない限り、ロシアは勝てないだろう。

そして僕は、できればこの試合は90分間で決着がついてほしい、とも思っていた。明日のベルギーvs日本の試合を観戦するため、今夜の飛行機でロストフ・ナ・ドヌへ飛ぶ予定だった。もしもこの試合が延長戦にでもなったら、飛行機に間に合わない可能性が出てくるのだ。

そんな複雑な思いを抱えながら、17時にスペインvsロシアの試合がキックオフされた。

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試合が始まってすぐに、いままで観てきた試合とは雰囲気が明らかに違うことに気づいた。スタジアムには、地元ロシアやスペインのサポーターだけでなく、僕のような第三国のサポーターも集まっていたが、スペイン以外のほとんどのサポーターがロシアを応援しているようなのだ。それはやはり、地元のロシアに勝たせてあげたい、勝つ瞬間を観たい、という思いがあるからかもしれない。

たとえば、ロシアに少しでもチャンスが訪れると、観客は総立ちになる。そしてチャンスを逃すと、ため息を漏らして座る。逆にスペインの選手がボールを持つと、観客から大ブーイングが沸き起こる。これほどホームとアウェイがくっきり分かれる試合をワールドカップで観るのは、僕にとって初めてのことだった。

しかし、そんな観客の思いに逆らうように、あっけなくスペインに先制点がが生まれる。12分、ゴール横からのフリーキックで、ゴール前にこぼれたボールを、ロシアの選手がオウンゴールしてしまったのだ。

しかし、しかし、今度は観客の応援に応えるように、ロシアにチャンスが生まれる。スペインのペナルティエリア内でピケがハンドを取られ、ロシアにPKが与えられたのだ。

41分、そのPKをジューバがゴール右隅に決めると、大歓声がスタジアムを包んだ。

ロシアが追いついた!

これはもしかしたら、それほど単純な試合にはならないかもしれないぞ、と僕も興奮してきた。

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後半は膠着状態が続いたが、観客の大声援に押されたロシアに「自信」のようなものが感じられるようになってきた。スタジアムでは自然とロシアコールが沸き起こり、僕も彼らと口を合わせるようになった。スペインにとっては、かなり試合がやりづらかったかもしれない。

85分、後半から投入されたイニエスタのシュートを、ロシアのGKアキンフェエフがセーブすると、試合はそのまま延長戦に突入した。

ものすごい試合になってきた。これは本当に、ロシアがスペインに勝利するという、奇跡の瞬間が訪れるかもしれない。

そして僕にとっては、このままスタジアムにいたら、ロストフ行きの飛行機に間に合わないリスクが出てきた。けれど、ここでスタジアムを離れるという選択肢は僕にはなかった。ワールドカップの歴史に残るかもしれない、ものすごい試合の現場にいるのだ。その試合を放り投げて、スタジアムを出ることなんてできるわけがない。

もしも飛行機に乗り遅れたら、そのときはそのときだ。まずはこの試合を最後まで見届けよう、と決意した。

延長戦は、攻めるスペインと守るロシアにはっきり分かれた。大ブーイングの中でスペインは攻め、それをロシアが守ると大歓声が沸き起こる。なかでもGKアキンフェエフが素晴らしいセーブをすると、大きな拍手が起こった。

延長後半に入ると、不意にモスクワの空から、大粒の雨が降ってきた。僕は2階席だったので濡れなかったけれど、1階前方の席の観客はびしょ濡れになっているようだった。それでも彼らは、懸命なロシアコールを止めなかった。この雨はロシアにとって、恵みの雨となるだろうか、それとも……。

そして試合はついに、PK戦に突入した。

ロシアに勝ってほしい、と思った。このモスクワが、いやこのロシアが、歓喜に包まれる瞬間を見てみたい、と。

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PK戦は、スペインもロシアも2人目の選手までは成功したが、スペインの3人目、コケで異変が起きた。ゴールの左に蹴り込んだボールを、アキンフェエフに簡単に止められてしまったのだ。

スタジアムには、いまかいまかとその瞬間を待ちわびる、ロシアの観客たちの姿があった。スペインのサポーター以外の誰もが、ロシアの勝利を願い、そして心のどこかでそれを「確信」していた。僕もその一人だった。

そして、スペインの5人目、アスパス。勢いよく蹴り込んだボールは……、アキンフェエフが左足で止めたのだ。

ロシアが勝った!

その瞬間、地鳴りのような大歓声とともに、人々が飛び跳ねた。抱き合う人、ガッツポーズをする人、涙を流す人……。僕も自然と、隣の中国人の男性と肩を組んで喜び合っていた。それはもしかしたら、ロシア中が「揺れた」瞬間だったかもしれない。

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ロシアが勝った……。ものすごい瞬間だった。サッカーの歴史に長く語り継がれるであろう、ものすごい瞬間に立ち会えたと思った。

多くの観客が、スタジアムを離れられないでいた。興奮の余韻をいつまでも味わっていたいのだろう。そしてやはり、僕もその一人だった。

ようやくスタジアムを出ると、モスクワの空からは雨が上がり、再び青空も見え始めていた。なんだか今日は、空までロシアの人々を祝福してくれてるみたいだった。

そんなこんなで地下鉄の駅まで出てきたとき、僕はとんでもないことに気がついた。

そうだ、ロストフ行きの飛行機だ……!

時刻はすでに21時を過ぎていた。いまから空港へ急いでも、飛行機には間に合わない。運航情報を調べたが、定刻通りに出発とのことだった。

やはり、間に合わなかったか……。

少し落ち込んだが、キャンセル不可のこの航空券を諦めて、新しい航空券を取り直すことにした。すると、翌朝出発のウラル航空の航空券が見つかった。意外と高くない。

迷っている暇はなかった。すぐにその航空券を予約して、明日の早朝の飛行機でロストフへ向かうことにした。

問題は今夜の宿だ。早朝に空港へ行く時間を考えると、モスクワのホテルに泊まっても、ほとんど寝る時間はありそうもない。とりあえずモスクワの街へ出てから考えることにしようか、と思った。

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地下鉄に乗って、モスクワの中心部、ボリショイ劇場の前へ出た。時刻は22時過ぎ。その夜の街へ出た瞬間、目の前に広がる光景に、僕は思わず呆然としてしまった。

ボリショイ劇場の前の大通りには、信じられないほどの数の車が集まり、大渋滞が起きていた。そしてそれらの車が、一斉に大きなクラクションを鳴らしていた。彼らは、今日のロシアの勝利を、盛大なクラクションでお祝いしているのだ。

車だけではない。夜のモスクワの街には、まるでお祭りのように、人々が溢れかえっていた。ロシアの三色旗を振る人、ロシアの応援歌を歌う人、お酒を呑みながら歩く人……。

誰かがどこかで、「ロシア!ロシア!」と叫び始めると、周囲にいる人々の間で自然とロシアコールが起こる。すれ違う人たちは、自然とハイタッチを始め、あちこちで大きな歓声が沸き起こる。

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モスクワにいるすべての人が、笑い、喜び、祝い、酔っていた。いや、それはモスクワだけのことではなかったかもしれない。

西はサンクトペテルブルクから、東はウラジオストクまで、きっとこの広いロシア中が、いま歓喜に包まれているのだろう。まさに今夜は、ロシアという国にとって、最高に幸せな夜なのだ。

たった一晩しかないであろう、そんな幸せな夜に、自分もロシアの大地にいる。その事実に気づいたとき、思わず心が震えた。

お祭り騒ぎのモスクワの街を歩きながら、僕は思った。もしかしたら、飛行機に乗り遅れてよかったのかもしれない、と。

飛行機に間に合っていたら、このモスクワの歓喜の光景を見ることはできなかった。乗り遅れたからこそ、僕もいまこうして、彼らと一緒に幸せをかみしめているのだ。

今夜はホテルになんか泊まらないで、朝までモスクワの街で過ごそうか。ロシアの人々の大騒ぎを見ていれば、あっという間に朝が訪れてしまいそうだった。

鳴り響くクラクション、揺れるロシア国旗、手が痛くなるほどのハイタッチ、お酒の匂い……。周りのすべてが五感を刺激して、胸が熱くなった。

そうだ、モスクワの街で朝まで遊ぼう。今夜だけは、きっとそれが許されるはずなのだ。

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街中でサッカーを始める若者たちがいる。大量のビールを道路にぶちまけるおじさんがいる。どこからか女性たちの笑い声が聞こえる。酔っ払ったまま路上で寝入っている男もいる。

そんな光景を見ながら、僕は気持ちが軽くなってくるような気がした。

時刻は0時を過ぎていた。僕はただ、夜のモスクワで、数えきれないほどの幸せに包まれていた。

旅の素晴らしさを、これからも伝えていきたいと思っています。記事のシェアや、フォローもお待ちしております。スキを頂けるだけでも嬉しいです!