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留学ってきつい、楽しい                       その2

文字数:12849字

文章を書き換えたり誤字脱字を訂正したりしてみました
(2022.5.31)
今日、「留学って~ その1」の訂正を済ませたので、この記事も再度改修に取り掛かるつもりです。写真等も追加するかもしれません。ご期待ください。 2022.6,29
現在「書誌学」で休止中 6.30  17:31
結構間違い発見はいつものこと。一応点検終了!
落ち着いてきたら、加筆、加写真するでしょう 2022.7.1

文字数: 12,837字

自費出版の出だしから引用

最初の短期留学(ミシガン大学)からこの記事の留学を結びつけるほんの最初の2頁をそのまま記載してみます。全体を約30日で手書きした。そのうちこの2頁に1週間をかけた。わたしの手元にはこの1冊しか残っていません。文章は勿論縦書きです。改行もそれにならって載せてみました。

1 緊張の日々

遊  学
 「アメリカに遊びに来たのね」
 これほどショックな言葉はない。
 私がはじめてアメリカに短期留学していた1970年8月のことだった。帰国の途中立ち寄ったホノルルで、私に対して知人の行った言葉である。私は留学していたのだと思っていたから、この言葉は意外であり、実に心外だった。
 私は、自分の兄、姉、妹の留学に刺激を受けていた。大学生だった私は、教師として就職したら、4年目には何が何でも留学するのだと心に決めていた。大学卒業1週間前に結婚していた家内にも、何も言わずに決心したのだった。そして、なけなしの金をはたいてミシガン大学へ留学したのである。それは素晴らしく、楽しい経験だった。
 ホノルルでの入国審査で、自分の英語が通じるだろうかと心配していたところ、審査官が日本語で話しかけてきたので、びっくりして却ってとまどってしまった。ミシガン大学の図書館で午前1時まで宿題をしたのも、良い思い出となった。寮の食事にも大満足だった。心配していた自分の英語も通じた。週末には、乗り換えのために、野外のバス停の長いすで夜を過ごしてナイアガラへ出かけた。思った以上に収穫多き留学の旅だった。
 あの言葉は、私に大きなインパクトを与えた。「遊び」と言われたことに反発を感じた。帰りの飛行機の中で、ずーっと「遊び」という言葉が頭から離れない。自分の持ち金をはたいたことが、「遊び」と言われる程度のものだったのか。夢にまで見たこの留学が「遊び」だと言うのか。「遊び」なら、あの夜中の図書館での勉強は何だったのか。あれは本当に「遊び」だったのだろうか。
 3か月ぶりの羽田空港はムッとしていた。ジュースを買おうとしてお金を探したが、米貨しか見つからない。久しぶりの蒸し暑さだった。帰国を実感させる暑さだった。あの言葉が、私の心の奥まで蒸し暑くしていた。
 しかし、あの言葉が無かったら、私の本当の留学は生まれなかったのだ。帰国便の中で、私は新しい決心をしていた。今度は、誰からも「遊び」と言われない「本当の留学」をするのだ。経済的に当てはなかったが、やはり家内には一言も言わずに心に決めた。
(ここまで自費出版本文)
(ここからは新しく書き下ろしたもの)
(書きながら、途中に写真や文章の変更がちょくちょくなされます)

印刷所に渡す原稿用紙
この清書に10日かかった
全部で(確か)大学ノート9冊
印刷所が送付してきた原稿
お金はかかるが、2刷目を希望すれば、
これがあれば印刷ができる。

大学に着くまでにへとへと

1970年のミシガン大学以来の
2度目の留学だ
今度は丸一年の予定だ
大学院の授業を一年に詰め込んで
なんとか卒業
そんな自信があるわけはなかった

1981年~1982年にかけての365日間の留学だ
たまたま365日になったことが
1989年に初めての自費出版をした
本の題名となった
『アメリカ留学365日』だ
普通自費出版は500部印刷なのに
いきなり1500冊印刷してしまった
(自費出版についてはまた別に記事に書く予定だ)
結果的に1500冊ほとんどが完売みたいなものだ
現在自分の手元には1冊しか残っていない

この留学の時、
飛行機が最初に着陸したのが
LAだったのかSan Franciscoだったのか
思い出せない
もしかしたらSeattleだったのかもしれない
勿論パスポートを調べればわかる
そのパスポートも何冊にもなって
今では散逸してしまって
何冊かは行方不明だ

わたしの記憶の中では
Seattleのバッゲージクレイムが最初だ
途方に暮れている自分だ
待てど暮らせどスーツケースが出てこない
ついにバッゲージクレイムに
人がいなくなってしまった
1970年のSeattleでのスーツケースの紛失は
帰る途中だ
紛失しても困らない
どうせ自宅に送り届けてくれるのだ
だから身軽になったことを喜んだくらいだ

Seattleの入国審査の時
留学するF-1ビザのパスポートを見ながら
手荷物以外は何もないことを問われた
スーツケースが出てこなかった
そう話すと、身軽でいいな と
ニコニコ笑いながら
パスポートに判を押してくれた

バッゲージクレイムで長い時間過ごしたので
当然のことながら
Chicagoまでの便に乗り遅れてしまった

シカゴ・オヘア国際空港 ⇒ テレホート地域空港

(Chicago O'Hare International Airport → Terre Haute Airport)

SeattleからChicagoまでと
そこからTerre Haute(テレホート)まで
飛行機を再調整する時間は
たっぷりあった
確かに身軽な旅は助かった
重いスーツケースを気にしなくていいのだ
Seattleでたっぷり休憩して
Chicago行きの便に乗り込んだ
Chicagoからはプロペラ機
とにかく身軽はありがたい
シカゴ・オヘア国際空港に着くと
プロペラ機のための
待合室まで歩いてみた
かなりの距離だった
窓口でTerre Hautテレホートまでの
飛行機の予約ができなかった
遅く着いたからだ
仕方なく元の待合所に戻った
そこで徹夜をするのだ
待合所からは次々と人が減っていった
そしてわたしともう一人の紳士だけ残された
空港内の店という店が
シャッターを下ろす音
あっという間に空港内を覆いつくす静寂
そこに現れたのは
若いヤンキーっぽい少年たちだ
わたしは席を移動した
もう一人の紳士の背中側斜め後ろに陣取った
怖かったからだ

空港での「野宿」は初めてだ
1970年にデトロイトからナイアガラへの
道中のバス停で
生まれて初めての「野宿」をして以来だ
どちらもそれなりに怖かった

空飛ぶジェットコースター

朝が来てプロペラ機(コミューター)発着の
待合所にすぐに行ってみた
まだ数人しか客はいなかった
早速フロントで予約手続きだ
コミューターとは通勤用という意味
だから満席だ
「キャンセル待ちになります」
仕方ないので名前を呼ばれるのを
待つしかなかった
狭い待合室は満席だ
飛行機が飛び立つと
空席ができる
でもすぐに満席だ
キャンセル待ちはつらい
しかし、昼過ぎに名前が
ついに呼ばれたのだ
初めてのプロペラ機
15人乗りくらいだった
緊張が走った
ジェットコースターだ
冬休みにテキサスからインディアナまで
同じようなコミューターに乗った
その時に写した操縦席の写真がある

「空飛ぶジェットコースター」とはわたしがつけたあだ名だ
とても怖かったことでつけてみた

早くも手続き始まる

翌日には担当教授との
初めての面会だ
どの授業の単位を取るのか
また次の学期にはどれにするのか
予定を立てて
案を示してくれた
わたしには何が何やら
分からないままことが進む
分からないまま
教授が示してくれるまま
受け入れて行くしかない
語学をしたかったのだが
それは無理だと言われた
語学を採るなら
全ての教科を専門教授と
相談しながら組み立てなければ
一年間では
到底治まらないことが
判明したからだ
とにかく文学専攻ということにせざるを得なかった

今ならPCやスマホで
計画した教科受講の手続きができるのだろうが
当時はまだまだそんな時代ではなかった
大きな体育館に
決められた順番に
教科受講権利の争奪戦が始まったのだ
そんなこととはつゆ知らず
列に並んで自分の番を待つ
体育館の上の方に
受講手続き具合が映し出された
例えば、あと「残 1」という具合だ

わたしの名前や日本の住所は画像をいじっている
それ以外は実物からの画像だ
これはアドバイザーの許可をもらっていることの証明だ

大学院生は最も最初に手続きができる
大学院生のアルファベットが若い順
そんなの不公平だと思っていたら
次の学期では
前回の順番の次のアルファベットから
手続きができるという具合だ
ISU(Indiana State University)は
学生数約1万人だ
可哀そうなのは入学したばかりの
1年生(freshmen)たちだ
上級生が先取りするので残り数が
軒並み減少するのだ
半泣きの新一年生もいる
予定通りに教科受講を手続きできないと
諦めるしか手はないのだ
諦めたらまた指導教官の元に戻る
教官との新たな作戦会議だ
教官のサインがなければ
動きが取れないからだ
(当時の時間割争奪のための
新聞があるはずだが、
探せど探せど見つからない)
漸く時間割が完成!

ちょっとしたドッキリ作戦

その後何日目かに
授業料を納付しなければならない
納付場所には2か所のレジのような
レジでないような・・・長蛇の列
わたしはドキドキしていた
理由は・・・ちょっとしたドッキリ

わたしの小切手が使用後に銀行から返還された
懐かしい記念品となる

アメリカ人は原則として
現金を持たない
持つのが怖いのだ
失くすのが怖いのだ
盗まれるのが怖いのだ
だから小切手を使う
わたしも日常は1ドルの商品購入でも
小切手で支払った

冬休みに
寮で過ごすのはとても寂しい
そこで冬休みに入る1,2か月前
電話をした
冬休みに泊めてほしいという内容
1970年に知り合ったアメリカ人家庭
もちろんいいよ、という話になり
インディアナポリス空港から
テキサス州へ!
迎えに来てくれたそのファミリー
11年ぶりの再会
クリスマスの御馳走を食べて
2,3日してから
ヒューストンへ行くという
勿論ついて行った
車での移動は新鮮だった
その途中で銀行に寄った友人
銀行から出てきて
車に乗る時には
100ドル札を後生大事に
家族に見せていた
「こんな大金は久しぶりに目撃した」
金の延べ棒を隠すように
キラキラした目をして
その大金を財布に入れて
手にしたバッグに収めた
わたと目が合って
首をすくめて笑った

授業料の件だが
支払いの前日に
銀行で現金を引き出した
銀行員の女性はびっくり
えっ!大丈夫?無くさないでね
何に使うのよ
えっ!授業料の支払い!
小切手でないと失くしたら大変よ
たくさんの心配をしてくれた

わたしの汚い靴が目立つ
これが留学中の日常ファッション

寮は2人部屋だ
だからカメラも引き出しに入れ
というより、隠し
お金のことは絶対の秘密
日頃全く現金のない生活
だから秘密は厳守できそう
翌日授業料の支払いのため
その現金を分からないように
何食わぬ顔
でもきっと
顔に緊張が表れていたはず
ドキドキドキドキ
尋常ではない気分だ
ドッキリなどやめておけばよかった
でももう仕方がない
周りには知らない学生ばかり
みんな小切手を出す
そして・・・ついに・・・順番が!
前もって金額は分かっている
1単位いくらと決まっているからだ
今となってはいくらだったか覚えていない
わたしがポケットから現金を出すと
レジの人はわたしを二度見
うしろの学生も隣の列の学生も
じっとわたしの手元の札束を見る
見たことない額の札なのだ
札束を見てわたしを見る
さすが日本人だ、と
思われたことにした
ちょっぴり気分が良かった
変な見栄だったのかもしれない

授業形態

授業は3種類のスタイルがあった
① 50分 × 週3日
② 75分 × 週2日
③  165分 × 週1日(休憩を入れる教授もいる)
 秋の学期は教科書
  3教科分で、13冊86ドル
    (当時のレートは1ドル=約245円)
定期試験は①は中間と期末(そのほかに予習テスト)
②は期末だけか中間もある教科もある
  それ以外は院生だけのクラスは1~3つの論文
③は期末のみ+論文
①は大学4年生と大学院生の混成が多い
②と③は基本的には大学院生のみ

どの教科も進む度合いは日本よりはるかに速い
文学なので授業前には読んでおかなければ
置いてきぼりを食らう
例えば、①の教科が10時からとする
わたしがしたのは朝食後図書館に直行
授業前までにその日の予習をする
シェイクスピアのクラスの場合
1つの作品を50分の授業で終わらせるのだ
読んだことのある作品もあるにはあるが
読んだことのない作品も多い
下記の写真はShakespeareの教科書だ
もう一つは②の形態のクラスの教科書だ
どちらも分厚い
全部をやってしまうから恐ろしい
その予習に要する時間は半端ない

教 科 書

『The Riverside Shakespeare』
これがテキストだっ!
Romeo &Julietの掲載頁

「Shakespeare]の授業のためには
週3日、毎朝図書館で3時間
その日の授業の予習で読破
この授業は毎時間「予習テスト」が実施された
それ以外に②と③の予習もしなければいけない

ある教科では教科書の中の
200頁ほどを担当して発表会があった
読んだことがない作品で
読めども読めども内容がつかめず
発表の時が迫っていた
そこで教授の部屋をノックする
笑顔の教授が中に招じ入れてくれた
「発表する箇所の内容が分からないのですが」
それは大変、と言いたそうな教授
でも助ける気などさらさらない
「分かるにはどうすればいいでしょうか」
わたしは必死だ
「もう一度最初から読み返すしかないでしょうね」
何と言うつれない返事だ!
でも自分もそうとしか思えないのだ
そこで週末他の予習は置いといて
最初から読み返してみた
すると、読むにつれて
内容が映像として展開を始めたのである
おかげで発表の持ち時間1時間が
無事に終了した
学生たちによる質問も
大過なく終了だ
実は発表の前の授業の時
クラスメイトの女性が
「質問はしないからね、頑張ってね」
と声をかけてくれていたのだ
彼女の質問は他の発表者を悩ませていた
内容の深みに迫る質問をする院生だったのだ
発表が終わってから
人に気づかれないように
彼女に感謝の目配せを送った

中古テキスト

Dickens著 『Bleak House』

わたしはこのテキストを
中古で購入した
そのメリットは2つある
①中古なので安い
②授業でのメモが書き込まれていて
勉強のヒントが満載
この写真の頁にもメモが見える
アメリカの本屋では
新品と中古品が並べて陳列している
特に学校の本屋さんは
中古のテキストを買い取ってくれるのだ
わたしも帰国前に数冊売りに出した
次の学期で授業がないテキストは
さすがに買い取ってくれなかった
アメリカの学生はたいてい売るみたいだ
自分のバイトで学費を出す学生が多いから
売りに出して一部でも回収できるメリット
わたしはただ単に帰国のスーツケースが
重すぎるのを嫌っただけだ

払い戻しのクレーム

実際のところ
帰国のためチェックインするときの
シカゴ・オヘア・国際空港で
荷物が重すぎるからと
余分の料金を払わされた
本当は太平洋線は
(当時は)超過料金を取らなかったはずだ
シカゴのフロントとしばらくやり取りをしたが
受け入れられずに諦めた
いくらだったか覚えてはいない
フロントのゴミ箱に
やむを得ず資料をたくさん捨てた
帰国してからすぐに
航空会社にクレームを入れた

結果としては・・・
お金を払い戻してもらえたのだ
それがアメリカ式なのだ

果たしてクレームは通るのか?

払い戻しと言えば
ミシガン大学でのことがある
ナイアガラの滝見物に
行った時のことだ
デトロイトから滝までのバスの旅
始発駅でドライバーが
切符を預かるという陳腐なシステム
1970年だから仕方ない
わたしの隣には
小さな子連れの母親
そのチケットも取り上げられた
ドライバーはみんなのチケットをもって
どこかへ姿を消す
出発間際になって戻ってくると
チケットを一人一人に返却するのだ
戻ってきたチケットをポケットにしまう
母親も同じように財布にしまう
ところが・・・
Niagaraに行くまでに
数回のバス停
そこでは乗ってきたのとは
違うバスに乗り換えるのだ
アメリカ人がおたおたして
乗り場はどこってアナウンスだった?
とわたしに聞く始末
勿論丁寧に教えた
そのうち隣の母子は下車して行った
カナダのバス停で「野宿」
朝一番のバスに乗る
ドライバーがチケット点検
「このチケットじゃぁナイアガラにはいけないよ」
ここでまた押し問答
こっちは必死だ
2万円(当時のわたしの給料約1か月分)
これこれしかじか
デトロイトでドライバーが
隣の母子のチケットと間違えたに違いない
などと食い下がる
「OK、OK!
ナイアガラまでは無料にしてやるよ」
ドライバーは諦めた
嘘ではないと認めてくれたのだ
「ただし、帰りのバスは
チケットを買い直してくれよ」
TC(旅行小切手)を
全て持参していて助かった

当然デトロイトに戻ってから
クレーム窓口で訴える
係りは何も言わずに
一枚の紙を渡した
クレーム処理の書類だ
夜遅かったが必死で書き込む
提出!
漸く大学までのバスに乗り込む
その後待てど暮らせど
クレームの返事が来ない
あと2,3日で帰国というのに・・・
その矢先に
ついに返事が来た
急いで封を開けると
「銀行に書類を持って行け」と書いてある
日本への出発一日前に
銀行の窓口へ
行員は黙って現金をくれた
何とわたしが余分に支払った額を
上回っていたのだ
理由は分からない
慰謝料があるはずもない
とにかく帰国直前に
大した朗報だった
バンザイ!
明るい気持ちで帰国できるぞ

試  験

大学4年生と合同の授業では
試験も大学生寄りになるものもある
しかし、基本はエッセイや論文形式が多い
「Shakespeare]」もそんな500番代だ
この教員は毎時間予習テストをする
定期試験は大学院生は論文形式
大学生は細かいことを問う試験だ
但し、その試験の内容は見ていない
わたしは院生だからだ
大学生の中には論文形式を希望と
教授に頼んだりしていた。
わたしも大学生だったら
論文希望を選んだと思う
論文は自分の知っていることを
書けばいいからだ

各学期に出される論文の宿題
タイプライターは卒業した学生から100ドルで購入
帰国する前に欲しいという人に50ドルで売った
この16頁からなるノートはテストの回答用紙で大学の
Book Storeで売られている
一般的には”Blue Book"と呼ばれた

留学して最初の試験は
さすがに緊張した
厳しい教授だったからだ
普段は優しい人だが
こと、勉強に関してはとても厳格だ
教授の中学生の息子が
たびたび教室のゴミ箱を覗きに来る
学生たちとは顔見知りだ
ゴミ箱から捨てられたアルミ缶を回収する
父親の見ている前だ
厳格な教授の顔が柔和になる
学生たちと顔を見合わせてニコッとする
この教授の中間テストは厳しかった
でも、親切なことに各問に要する
時間配分を書いていた
この教授だけのことだ
問題用紙を受け取ると
隣の女子学生が
早速鉛筆でさらさらと書き始める
わたしはまだまだ書き始める気になれない
問題の内容を吟味してからだ
1週間くらいして
答案を返してくれた
隣の女子学生が
わたしの答案を覗き込む
「まっ、私よりもいい成績ね」
わたしも彼女からその答案を見せてもらった
「C」だった

ある女性の教授は
試験の時にパンをどっさり持参
始まる前に
「パンを食べながら試験受けてもいいわよ」
この教授も厳しい授業を展開する
これは院生だけの授業だ
他の男性教授は
「途中コーヒーを飲みに行ってもいい」
日本人のわたしには
何のことか分からない
そのうち学生が廊下にある
アツアツのコーヒーを片手に
飲みながら戻ってくる
わたしはさすがにこれはしなかった
パンの時は答案提出の時に
2つほどもらって寮で食べた

書誌学(Bibliography)【600番代】

600番代の書誌学bibliographyという教科
当然院生のみが受講し、必修科目だ
その試験当日、受講者約10名が
試験の不安をぐちゃぐちゃ話していた
わたしはどれもこれも不安だったので
ただ聞いているだけだった
3時間ぶっ続けの試験が開始されると
他教科の時以上のしんとした雰囲気
わたしは頭の中がくらくらした
とてもじゃないが何を書けばよいか
分からなかったという実態
時間が過ぎ終了間際になると
ある受講者がすごかった
「こんな問題、分かるはずないじゃないっ」
そういうと、答案用紙を教授に向かって
投げつけたのだ
ちょうどその辺りに座っていたので
わたしはびっくりしてしまった
とは言え、
彼女の気持ちは共有できた
その教授はいじわるな人ではなかった
ただただ難しすぎたのだ
わたしは教授に好感を持っていた

ある週末、キャンパスを歩いていると
かの教授と出会った
「今度ミシガン大学にいる
恋人に会いに行くんだけど
一緒に行かないか?
車で行くから費用はかからないよ」
わたしがミシガン大学に行きたがっていると
話したことがあったからだ
「とっても行きたいですが
週末に勉強しないといけないので・・・」
わたしはしぶしぶ断った
今でも同行すればよかったと
断ったことを後悔している
後に(2002年)一人でミシガン大学に
行くことが出来たが
それでも後悔は残っている

試験の結果は「合格」だった
「I am very proud of you!」
担当教授(アドバイザー)が言ってくれた
彼女から一番難しいと言われていた教科だ
最初の学期でこれが取れたことが
何よりの安心材料なのだ
しかもこの教科で手に入れた
図書館での資料探し等で
力を発揮できるというわけだ

トマトのオバチャン

最大の尊敬と感謝を込めて

この女性は還暦過ぎた院生だ
現地の人は格安で受講できる
わたしは各学期で3教科も4教科も受講した
オバチャンは1教科だけだ
彼女は授業が終わると
親切にも前の授業のまとめを
びっしり4~8頁をタイプしてくれた
頼みもしないのにだ
わたしはその教科のノートが最初から取れていたので
もらった長文のメモも
読まなければならない
これはある意味拷問みたいなものだ

これがトマトのオバチャンの復習原稿だ

時間が取られるので
有難迷惑なことなのだ
だからと言って、その親切を
ないがしろにはできない
一応目を通して次の授業前に
内容に触れながら感謝
彼女は広大な敷地を持つ農家だ
周りの畑地を見ながら
「目に入る限りうちの農地なのよ」
それとは別に
大きな家の前には
自宅用の畑を持つ
トマトが実ると
授業の前に渡してくれる
休みの日には
隣町のセミプロの劇場に
息抜きも兼ねてついていった
帰国してからも
やり取りしていたが
いつの間にか音信不通に!
お子さんはカリフォルニア州
いただいた夫婦の額入り写真
胸が詰まることもある

実はもう一組の夫婦と
留学中に知り合った
それは6月の休暇に
グレイハウンドに乗って
New Yorkに行った時のことだ
バスの中で、話しかけてきたのだ
「日本人かい?」
「自分たちはこの休暇の時間に
2人で1枚のチケットで乗れる
サービスを使って
旅をしてるんだ」
そう言って、いろんなことを話してくれた
楽しい語らいの時間は
すぐに終わってしまう
ところが、忘れた頃に
コンタクトが取れたのだ
帰国してから
分厚い荷物が届いた
見ると、かのバスの客
「アメリカの若者は
読書をしないから困る」
と書いてあった
送ってくれた本は
どれもこれも
哲学書だった
仕方なく読んでみると
日本語よりも分かりやすい
英語とはそのような言語なのだ
日本語が持つ
抽象的な意味を持つ表現を
英語は分かりやすい言葉で
迫ってくれるのだ
彼らの写真はない
二度ほど荷物が届いた
クリスマスカードのやり取り
そのうちいつの間にか
フェードアウト!
トマトのオバチャンと
同じくらいの年齢だったっけ・・・

もっといろいろと
この記事で話したいことはある
しかし、そろそろ別な記事を・・・
などと心の中が騒ぐ
でも・・・

最後にごちゃごちゃ書いてみたい

桜かと思ったよ~っ!

春になって桜が咲くころ

(勿論キャンパスに桜などない)
図書館にとぼとぼ歩いていて発見
いつもとちょこっと違う道
ピンクと白の桜の花!
おおっ!と一人で興奮
シャッターを切ってみた
桜のようで桜じゃない
それは何かと尋ねたら・・・
尋ねる暇などない
桜ではないことを知った時
最初に心に浮かんだこと
あ~ぁ、人生で一度
桜を見ることのできない年だな
とややセンチメンタルな気持ちに
帰国してみると
桜を見て歩くなんてこともなく
やはりセンチメンタルじゃと
でも、日本の桜はみようとしなくても
向こうから勝手に目に入り込んでくる
やはり幸せなことだ

ある日のこと昼食のために
図書館から戻る道中上空から声が

ふと空を見上げて感動

鳥の群れがなが~い列を作って
ピーチクパーチク言いながら
飛んで行く
くねくねと曲がりくねったその長い列
南の方に向かっていた
初めてみる渡り鳥の渡り
午後からの勉強のことをすっかり忘れ
カフェテリアでの昼食のことも
渡りの現象には勝てない
30分以上立ち尽くした
本当を言えば
途中からは道に座り込んで観た
図書館からの帰路でのことだ
ところが、渡りなので
当然戻ってくるはずだ
冬が終わりに差し掛かった頃
彼らが戻ってきたのだ
それを見逃すまいとして
機会あるごとに
冬の空を見上げ続けた甲斐があった
やはり長い時間と長い列
向きが逆になったことが
自然界の不思議を体感させてくれた
写真を撮らなかったことの悔い
きっと勉強に抑圧されて
カメラどころではなかったのか

キャンパスのはずれには

鉄道が引かれていた

女性たちは日本人の短期留学生だ
この駅舎は撮影の数年前に廃駅となっていた

キャンパスのすぐそばには
踏切もあった
この踏切が怖い
遮断機が下りていても
車はグネグネ曲がりながら
通り抜けるのだ
ピッピー!ピッピー!
貨物列車が警告する
それでも車はすり抜けて行くのだ
初めてみたときは
ただただビックリだ
そのうちピッピーの意味も
車がすり抜けるのも
理解できた
貨物列車の長さは
まるで渡り鳥の群れのようだ
あまりの長さに
貨物の台車を数えてしまった
自転車よりものろのろと走る
踏切近くに座り込んで
数えた数は
250両を超えていた
(注:この数は妻に宛てた手紙で確認した)
留学中一度踏切事故があった
車の二人は即死だったそうだ

出版本にも書いたが
体中がしびれるような失敗もした

大学寮では年に2度ほどの

火災の退避訓練があった

(それとは別にトーネイドーの
退避訓練もあった
いわゆる竜巻だ)
退避訓練は
夜中にでも突然実行された
少し離れた女子寮では
真冬に夜中の2時頃実施されたらしい
男子寮でも女子寮でも
さぼる人はいない
消防士が道具を持って
寮内をくまなく検索するのだ
中にはシャワー中で
腰にバスタオル一枚の男もいた
わたしの寮は20歳以上の男女寮だ
逃げだしたら
寮前の広い駐車場で待機だ
例えマイナス10度でもやるのだ

大分授業も楽しくなり
心に余裕ができ始めた頃
地下の洗濯場に行く
大体週末を利用していた
洗濯機が10台、乾燥機が10台
もっとあったかもしれない
仕上がるまで待機しないと
洗濯物をそこらへんに投げ出される
女性でも一切気にしない
洗濯物を丁寧にたたむ
こちらが目をそむける羽目になる
たたみながら話しかけたりするのだ
ある日、洗濯機が空いていなかった
そこで、隣の寮に行くことにする
隣の寮(サンディソン)は
freshman(一年生)専用だ
彼らはあまり洗濯をしない
そこで、1階と地下の
踊り場のドアに手をかけてしまった
「非常用扉」なのだ
分かっていたのに開けてしまった
何が起こるかって?
大変なことが起こるのだ
そして起こってしまった

火災報知器が鳴る

凄い音が寮中に響き渡るのだ
同時に階段から人が溢れる
エレベーターを使ってはいけないのだ
わたしはパニックになった
原因が自分にあることは明白だ
慌ててフロントに駆けつける
平謝りだ
しかしこれは訓練よりも迫力があった
寮前の駐車場に出てみると
既にたくさんの寮生たち
そして間もなく駆けつけた
消防車に消防士たち
次々に寮内に入っていった
それから数週間は
フロントの前を通るたびに
非難の目にさらされているのでは
という精神的不安
それもどうやら3週間経つと
過去の話になっていく

とめどなく続くので・・・


この辺で・・・
わたしの勉強風景など
寮生活風景など
あまりないが
写真を掲載して
卒業しよう!

わたしがいたギラム寮とfreshman用のサンディソン寮

サンディソンはうるさかった
一年生は家から離れて浮足立っているのだ
ついに春学期には
寮委員会から音楽禁止令
静かになった
実は静かになったもう一つの理由
秋学期で単位が取れず大量に退寮
アメリカの大学はそんな調子だ
ということで
ここからは映像で見てもらおう

図書館のRare book corner
書誌学で500万円程する本を調査した
骨董的価値がある書籍置き場だ
体育館でのサーカスを見に来た女の子
保護者の許可を得てシャッターを
サーカスチケット
Miss ISU Contest
勝てばMiss Indiana目指して
実物の半分
(写真隣の分の続き)
ストレス解消間違いなしだ
学内には演劇場2か所と体育館で
観劇して楽しんだ
(冬は-40度も・・・
寮前の駐車場も一晩でこの調子だ
寮内だが動画からのコマはこんな調子
プライバシーが保たれる
図書館で猛勉強
ルームメイトに撮ってもらった
寮で勉強することも
ルームメイトはバイト中
ルームメイトランディーの机
週末はギター大音量
休暇でカフェテリアが閉まると
廊下で自炊
意外とこれが楽しみだった
ホテルの部屋とプロペラ機合体写真
どうしてこんな写真が撮れたのか不明
教育学部の付属小学校で授業を依頼された
次々質問が活発

卒 業 式

ISUは年に数回卒業式がある
卒業式参加の案内が
来た時は
まだ半分の単位しか手に入れていない
そんな状態で卒業式参加の意欲無し
わたしは書類があればそれで十分
不参加だが卒業式には参加した
動き回れた分、写真もとれた

1982年5月8日午後2時 以下参加案内状の1部
Commencement this year will be held on Saturday, May 8, at 2:00 p.m.
in the Hulman Civic University Center. Master's degree graduates as of
December, 1981, May, 1982, and August, 1982 are eligible to participate
in this ceremony. との内容の書類がポストに入っていたのだ。
博士課程から始まって学部生の順番で入場するのだ。自分は参加なら
あの辺かななどと思いながら体育館内を動き回ったことを思い出す。
見る角度によって景色が違う
よく見ていると壇上の親戚群の居場所が分かる
親戚群というより応援団
1970年にLAのある高校(UCLAの付属高校的な)の卒業式に兄と潜入した
それこそ観覧席の応援団は大声、口笛、ダンス
校長から証書を受け取る生徒はやりたい放題
羨ましいほどに楽しい卒業式だった
教授陣席だ。プライベートでお世話になったDr. ReckやDr. Misenheimerなど
挨拶に行くとニコニコして応えてくれた
(顔には細工したので分かりにくくなっています)
証書を渡しているところ
知人友人が舞台下にひしめく
ここにアップした画像は全て写真だ
動画からコマ取りすればもっといろいろな場面がお見せできたのだが・・・。

最後に・・・

留学一年間のことを時系列にならべてはいない
思いつくままに書いたのだ
最後に卒業式にしたのは
その方が日本的で
分かりやすいと思ったからだ
一応、これでこの記事は終了だ
しかし、間違いなく大分経ってから
加えたくなる項目が
出てくること間違いなしだ
その時は
この記事の冒頭で
その旨をお伝えするだろう











現在進行中の記者の記事は
「ワクワクガックシルンルンシリーズ その1~その3」
「黄色いラッパ水仙」(ほぼ私小説)
「輝けガラクタ!」(私的ア-ト物語秘話)
「写真もアートも自作のオリジナル」
「New York 見聞録 その1~その6」
その他

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