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輝け、ガラクタ!

文字数:29022字

この記事の最初の頃は、自分のことを「ぼく」と表現し、後に「俺」に変えたので、これがきちんと変換できていませんでした。今回全体を見直して揃えました。また、誤字脱字等も書き換えました。その際、文章にも一部手を加えた場所もあります。同じ画像が入ったものもありますが、筆者があえてそうしました。 2022.6.1

この記事は、2004年にノーベル賞を受賞したワンガリ・マータイさんが翌年来日時に「もったいない」に出会い、「MOTTAINAI」を世界に広めたことで、㍿マガジンハウスが編集した『私の、もったいない』に筆者も応募し採用された。そのうち、筆者の応募作品(800字)をこの冒頭か文末に掲載する予定だ。すみません、近々掲載いたします。 2022.11.5


 エメラルド色だ

それは俺が海岸を散歩していた時に、俺の目に飛び込んできた色だ。娘の愛犬クマと毎日の散歩をする砂浜までは、俺の家から歩いて30秒だ。だから、俺は冬を除いては、家から裸足で散歩に行っていた。

 俺の足の裏には、地球が直接語りかけてきた。
砂浜はその日の気温を伝えてくれた。
海岸に時たま姿を現す玉石は、
まるで俺の体調を調べる簡易人間ドックのようだ。
足の裏のツボを押しながら、その痛みを知らせてくれた。

画像2

 かつてはさびれ果てた海水浴場が、今では再び人々を集めるようになっている。それは、水質検査で「適」をもらうようになったからだ。農薬がまかれた田畑からの排水で汚れていた海水が、改善されたのだ。近年の環境改善の意識の高まりから、川の水が浄化されてきた証だ。
 エメラルド色が俺の目にとまったのは、秋が始まろうとしていた頃の朝だった。俺は裸足で波打ち際を歩いていた。冷たい潮が俺の足に心地よかった。

 クマは散歩を楽しんでスキップするように歩いていた。
俺は海岸ではクマを放して散歩させた。
クマは俺につかず離れずの距離を走り回りながら、
俺との散歩を楽しんでくれた。


 そんな開放感に満たされた時に、エメラルド色が俺の目に飛び込んできたのだ。その朝も俺が歩いていたのは波打ち際だ。ジーパンを膝の位置で引きちぎった半ズボンを履いていた。俺はジーパンの膝に穴が開くと、はさみを入れて引きちぎる。海岸の散歩にはもってこいのズボンになるのだ。

 そんな格好で散歩をする俺のことを、娘は恥ずかしがった。友だちが「あんたのお父さん、すぐ分かるよ。だって、すごい格好してるからね」と言う
ほど有名だったのだ。

作業中4
(これは何をしているところか、「7、15」で分かります)

 俺はエメラルド色の正体を確かめるべく、腰をかがめた。とても小さなものだったからだ。マッチ棒の先ほどの小さなものだったからだ。波にさらわれてしまいそうで、俺は急いで腰をかがめた。波が引いたほんのちょっとした隙に、片方の手のひら一杯にエメラルド色の周りの砂をすくってみた。

 俺の手のひらに収められた砂の中で、そのエメラルド色は輝いていた。俺は空いている方の手の指で、その色を発する物体をつまんでみた。

小さな塊だった。
よく見ると、それがガラス片であることが分かった。
全体が丸みを帯びたガラス片だった。
まるでヤスリで削ったように角という角が
滑らかになっていたのだ。
俺は宝石を発見したような気分だった。
その濡れたガラス片をそっとズボンのポケットに忍ばせた。
捨てるなど、もっての外だと感じたからだ。

 俺はもう一度水辺でかがみこんだ。もっと宝石を発見したくなったからだ。波に洗われる砂浜にしゃがみこんで目を凝らした。次に目に飛び込んできたガラス片は茶色の輝きを放っていた。そのガラスの宝石を拾い上げると、俺は濡れているのも構わずにズボンのポケットにそっと入れた。


手向山たむけやまの宝

 俺は小学校5年生の3月に現在の北九州市門司区の大里だいりという所に引っ越した。それまでは、現在、門司港レトロとして観光スポットになっている近くに住んでいた。俺のこども時代の最も楽しい思い出が詰まっている場所だ。毎日遊びまわっていた場所だ。
 5年生の3月に引っ越した場所は、門司駅から歩いて5分ほどの場所だ。
中学生になって行動範囲が広くなると、俺は友だちと近くの手向山によく出かけた。兄弟と遊ぶことが少なくなりつつあった頃だ。この小高い丘は、現在は小倉北区と門司区を分ける境界線の役割を担っている。
 俺はつい数年前に海水浴場の近くから大里に引っ越してきた。退職をしたからだ。故郷への回帰を果たしたのだ。そこは手向山から歩いて10分くらいの距離にある。

 引っ越してすぐに、スニーカーを履いて散歩に出かけた。
裸足で歩く散歩はもはや夢の世界へと消えたのだ。
 俺は大学を卒業してからすぐに、勤務先がある下関に引っ越した。
だから手向山たむけやまに行くのは約40年ぶりになる。


 俺が手向山に向かって歩いたのには理由があった。
あれを確かめたかったのだ。
中学生の時、毎日のように出かけた場所が
どうなったのかを確認したかったのだ。
あわよくば、同じ楽しみを経験したかったのだ。
同じ発見を期待したのだ。

 しかし、それは跡形もなくなっていた。何の痕跡も留めていなかった。それがあった場所には、家が建ち並んでいた。その場所を歩きながら、俺は中学生だった時の興奮は、もしかすると勘違いだったのではないかと思ったほどだ。夢でも見て、それを現実のことだと思い違いをしていたのではないかと思ったほどだ。


 歩きながら、足元に目を凝らしてみた。
以前は山道だったはずのその道は、
しっかりとアスファルトで塗り固められていた。
車が離合するのがぎりぎりのその狭い急な坂道を、
車がひっきりなしに擦れ違っていた。


 俺は身の危険を感じながら、歩かなければならなかった。俺の右手には、ハンカチが握られていた。そのハンカチを鼻にあてがいながら、坂道を上っていった。息を切らしながら足を速めた。排気ガスに息の根を止められてしまいそうな危険を感じたからだ。

 俺が中学生の頃、手向山で発見したものは、
海水浴場で発見した二つ目の宝石と
同じような茶色の輝きをしていた。

 俺は道端の石ころの中からそれを発見した。小指ほどの小さなものだった。その石ころの道をおばちゃんたちが一輪車を押して行ったり来たりしていた。


ざくろ石


 「ぼくたち、もっと大きいのをあげようか」

 俺が小指大のものを太陽にかざしてその輝きに興奮していると、一輪車を押していたおばちゃんが声をかけてきた。一輪車の中を見ると、俺が発見した何倍も大きな茶色い石の塊が山と積まれていた。

 「おばちゃん、ほんと?」

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 俺たちは羨望の眼でおばちゃんの一輪車を見た。すでにどれをもらうかを物色していたのだ。「ほら、これをあげる」 おばちゃんは無造作にその中の数個をつかむと、俺たちに一つずつくれた。 

「ありがとう、おばちゃん」


 俺たちはもらうとすぐに走り出した。その勢いで手向山に駆け上った。標高百メートルにも満たない丘の頂上にたどり着くと、そこは広場になっている。
 その一角にある岩に腰を下ろすと、俺たちは、もらったばかりの茶色い石を太陽にかざしてみた。思ったほどには光を通さないその石は、俺の心にしっかりとその輝きを刻み込んだ。

 その石は多角形をしていて、それぞれの表面はすべすべしていた。その一面一面に指を這わせてみた。すべすべしたその感触は、その後大人になった今でも指先に残っている。不透明だが透明な輝きは今でも俺の中にしっかりと刻み込まれている。

 その刷り込みのおかげで、
俺は海岸で宝石を発見することができたのだ。
そのおかげで、
俺はその小さな宝石をポケットに入れる気になったのだ。

おばちゃんに聞いてみた
手向山で石を山ほど積んだ一輪車を押していたおばちゃんだ

「おばちゃん、この石はなんていう石ですか」

 茶色の鈍い輝きを発していた石は、ざくろ石だった。おばさんの一人が教えてくれたのだ。
 俺は一輪車の中に深紅色の石も見逃さなかった。後になって調べてみると、それはガーネットと言われる本物の宝石だった。おばさんがくれたものは、半透明の茶色の石だったから、宝石とは言えないものだったのかもしれない。それでも研磨剤として使われくらいだから、硬い石に違いないのだ。
 
  俺は海岸で拾った数個のガラスの宝石を家に持ち帰った。家族にはこっそりと持ち帰った。もしその宝石を家族に持ち帰ったことがばれたら、どんなことを言われるか想像に難くなかったからだ。

 「そんなものをどうするの」

 「おとうさん、みっともないじゃない。また友だちから、あんたのおとうさん、海岸で何か拾ってたよって言われるじゃない」

  俺は最初から家族に見せる気などさらさらなかった。そんなことを言われるくらい想定内のことだったからだ。

( cupboardは[カバード]と読みます。家具屋では「カップボード」と書いてあるところが殆んどですが・・・)

  ポニーとクマを散歩に連れて行くときには、裏庭から玄関まではL字型の倉庫を通る。俺の秘密の場所だ。趣味の家具作りですら、その倉庫の中に引きこもってしていた。夜中でも電気をつけて作業をした。音がしない作業は暗くなってからだ。
 材木屋で買ってきた幅40センチ、長さ4メートルもの木を切るのは明るい時間帯だ。毎日のようにそこに引きこもっていると、倉庫のあらゆる場所が有益な場所になるのだ。
 そんな一角に、俺は将来役に立つかもしれないいろいろな物をごみのように積み上げていた。その奥に、俺はアルミ箔でできたインスタント麺の空き皿を溜め込んでいた。
 クマを裏庭に放すと、俺はそのアルミ箔の皿を収めた場所に行った。ジーパンのポケットから、拾ってきた数個の小さなガラス片を取り出し、その中にそっと入れてみた。

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(右がポニー、左がくま)

 ついにそのアルミ箔でできた皿が役に立つ時が来たのだ。皿を左右に動かすと、ガラス片はさらさらと音をたてた。役に立つこともあると思って取っていたものが役に立った瞬間は、それを取っておいた者にしか分からない。しかも、その中に入れたものが、宝石と同じ価値を持っているとなればなお更のことだ。
 俺は砂のついた足を庭の洗い場で洗うと、何食わぬ顔をして家の中に入った。そのくせ妻に宝石のように輝くガラス片のことを話したくてうずうずしていた。しかし勇気がわいてこなかった。
 俺はしばらくの間、リビングのソファーに座って、散歩の時の様子を反芻はんすうしてみた。テレビを見ながら、頭の中に浮かぶ映像は、エメラルドの輝きだった。こどものときに拾った石と同じ輝きをした茶色の半透明の輝きだった。

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”ちり”か宝か

 
 俺は海岸で拾ってきたガラス片を見せたいのに、見せると馬鹿にされそうな気がした。
 しばらくして、俺はリビングから倉庫へと行った。どうしてももう一度あの輝きを確認したかったのだ。
 倉庫の奥に仕舞い込んだアルミ箔の皿を、大事そうに取り出してみた。皿の中には数個のガラス片が入ったままだ。俺は皿を取り出してみて、驚いた。がっかりした。信じられなかった。俺を感動させてくれたあの輝きは失われていたのだ。一つつまんでみて、明るい方に向けてみた。光に透かしてみればあの輝きが戻ってくるような気がしたからだ。しかし、無駄な抵抗というものだ。
 手元にあるガラス片は、乾き切っていた。その結果として、輝きが失われたのだ。宝石の輝きを持っていたはずなのに、ただのガラス片に戻っていたのだ。ただのガラクタになっていたのだ。そんなものを見せたら、妻もこどもたちも俺を笑うに違いないと思うと、見せなくてよかったと安堵した。

 俺は諦めるわけにはいかなかった。ほんの少し前までは輝いていたからだ。俺はガラス片を二、三個手のひらに乗せて、庭の足洗い場に向かった。家族に見つからないようにそっと移動した。
 足洗い場で、俺は水道の蛇口から水をしたたらせた。そしてその水でガラス片を濡らしてみた。すると、見事なエメラルドの輝きが戻ってきた。本当に見事な輝きだった。
 俺はそのエメラルド色に輝いたガラス片を、リビングまで急いで持ち込んだ。それを妻に見せた。

 「きれいね」

 俺はほっとした。思わず顔がほころんだ。

 俺はそのエメラルド色のガラス片を妻の手のひらに乗せてみた。妻は手のひらを右に左に動かし、上にあげたり下におろしたりして、その輝きを確かめていた。まるで、その輝きの真偽を確かめる検査官のようだった。

 「色が褪せてきたみたい」

 俺はがっかりした。含んでいた水分がガラス片から失われるにつれて、宝石の輝きは着実に失われ、ついにはただのガラクタに戻ってしまうのだ。
乾いてしまったガラス片は小さく割れたビンのかけらに過ぎない。石や砂にこすられ波に洗われてすりガラス状になっているから、普通の割れたガラス片よりも輝きがないのだ。小さな気泡ができて、軽石状になっているものもある。
 水につけると、その気泡から水分がガラスの奥にまで滲みこんでいるのかもしれない。だから、普通のガラスよりも輝きが増すのだろう。輝きに深みが増すのだろう。
 初めてエメラルド色の輝きをしたガラス片を拾ってからは、毎日のクマの散歩がそれまで以上に楽しみになっていった。

 「ズボンのポケットの中の砂、完全に取り除けてから洗濯に出してね」

 まるでこども扱いだ。考えてみると、50(当時)を過ぎた熟年おっさんのポケットから砂が出てくること自体、こどもみたいな出来事なのだ。

 俺が拾うガラス片には、必ず砂がまとわりついている。波打ち際で拾うとなると、ガラス片を具にしたカツでも作るかのように砂がまぶりついているのだ。当然のことながら、俺の指にも砂がまとわりつくことになる。俺は構わず拾ったガラス片をズボンのポケットに入れる。ポケットから手を出すと指についていたはずの砂の量が減っているのだ。

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 『ちりも積もれば山となる』とはなかなかの名言だ。

 俺の家の倉庫の秘密の基地には、1つのアルミ箔の皿では納まりきれないほどのガラクタが山と積まれていった。大小様々のサイズのガラス片が、折り重なるようにして積み上げられていた。毎回目につくガラス片は、わずか10数個程度のものだ。ゴマ粒大の小さなものから、消しゴム大の程度のものまで様々だ。
 俺は中でも茶色のガラス片があまり好きではなかった。どこにでも落ちているからだ。透明度が低いからだ。柘榴石のように、宝石の中でも低いレベルのものにぶち当たった感触がするからだ。
 最初の頃は無差別に目に入るものは全て拾っていたが、皿に盛られたガラス片の山を眺めていると、茶色のガラス片が色調を壊しているように感じられた。
 この茶色のガラス片は、捨てられたビール瓶の成れの果てなのだ。


バカ貝

 海水浴場の近くに住んでいると、心が癒される。そこには地球の恵が凝縮されているからだ。
 オゾンを胸一杯に吸い込むことができる。潮味の効いた空気は心を和ませてくれる。絶えることのない波の音は、慣れてくるとそれなしには生活できなくなってくる。生活に正確なリズムを刻んでくれるからだ。
 海水浴場の近くには、俺の家族は二箇所にわたって合計38年間住みついた。海の近くに住むことは、俺のこどもの頃からの夢だったのだ。それも、俺が住み着いた海水浴場の近くという地域限定の夢だった。その海水浴場に初めて訪れたのはいつかは特定できないでいる。
 とにかく、小学生の時に家族全員でその海水浴場に出かけたのが最初だ。それ以降、毎年夏になると、1度か2度は必ず出かけるのが慣わしとなった。某新聞社に勤めていた知り合いの人が、海の家の無料の券をくれるようになったからだ。貧しい時のことだから、家族8人が無料で一日を過ごすことができることは大きな魅力だったはずだ。
 俺がその海水浴場の近くに引っ越した頃は、海水浴客は数えるほどしかいない場所になっていた。昔は海岸線に沿って立ち並んで、客を呼び込む威勢のいい声でみなぎっていた海の家も、利用してくれるのならどうぞ、というような受身の姿をさらしていた。
 俺は懐かしさもあって、引っ越した次の日には、2人のこどもたちを連れて海水浴場を散歩した。一軒一軒、かつての海の家を眺めながら、自分がこどものときにいつも無料で利用していた場所を探し求めた。
 海水浴のシーズンではなかったが、大半の家が海の家の面影を残していた。剥げ落ちたペンキや看板。海岸に突き出た広い間取りの部屋。足洗い場。休眠状態であることは一目瞭然としていた。
 その中に、俺は一軒の海の家を発見した。以前は、水着の人々でごった返していた広い板間の座敷は、昼間なのに古ぼけた木の雨戸で堅く閉ざされていた。
 その場所こそが、俺が探し求めていた海の家だったのだ。
証拠は、座敷の屋根を突き破るようにして聳え立つ松の木だ。聳え立つと表現してみても、こどもの目線からの印象だ。その松の木は屋根に到達するまで妖艶に曲がりくねっていて、当時は俺が登ってみるのには最適に見えた。でも俺はその木に一度も登ってみることはなかった。そんなことをするこどもが一人もいなかったためではない。こどもながらに、砂だらけの板間の真中を占めていたその松の木に、畏敬の念を覚えていたのだ。その松の木を見るといつもほっとしたものだ。
 俺は自分のこどもたちを引き連れて散歩をしながら、胸がドキドキした。冒険の末についに発見したを見たような気がしたからだ。俺がこどもたちと発見した松の木のある海の家は、すでにその役割を終えて倉庫として使われていた。それなのにあの松の木は雨戸の隙間から見え隠れしながら、厳然としてその存在を誇示していた。
 海岸近くに住んでみると、予想もつかない収穫に出くわす。
 俺は赤川次郎の作品は一つしか読んだことがない。しかも、その本の題名を知らない。教え子から借りて読んだものだ。当時の高校生の多くが彼の作品を読んでいた。俺が読んだことがないと話すと、赤川次郎の熱烈なファンが一冊貸してくれたのだ。
 その本の中で、一人の男が海岸を散歩する場面が出たことを覚えている。彼は海岸を散歩しながら打ち上げられる魚を拾って帰るのだ。俺はそんな馬鹿な話があるものかと思っていたが、そんな話は普通のことだった。魚を拾って帰る気にはならなかったが、生きたコウイカを持ち帰ったことは数度ある。テリヤキにして食べてしまった。
 岩のりだって散歩の途中で発見して、1時間もかけて岩からこさぎ落とし、家に帰ってからベニヤ板に貼り付けて天日干しにして食べた。まさに手作りの上等な海苔だ。残念なのは味ではなかった。海苔に混ざって取り残してしまった少量の砂だ。砂を噛む思いとはこのことだと思いながら、少しも残さないで食べた。
 川沿いのテトラポットにへばりついているカキを取ろうと出向いてみると、既にこさぎ取られていた。がっかりして次の大潮が待ち遠しかった。打ち上げられたワカメの味噌汁だっておいしかった。
 こどもたちを伴っての最初の発見は、ハマグリだった。少し痩せたものだったが、俺は興奮してこどもたちと一緒に拾い集めた。家に持ち帰って、妻に自慢した。早速その日の夕食の味噌汁の具になったハマグリを、俺は後生大事に最後まで残して味わった。

 「あれはバカ貝だ」

 後日、その話を俺の兄に自慢げに話すと、兄は事もなげに言い放った。そして、この件は兄が正しいことが様々な人たちの証言から明らかになった。

 「ああ、この海岸で取れるのは、きぬ貝ですよ」

 親しくなった近所の人に話すと、そう話してくれた。俺は少しだけうれしくなった。バカ貝ではなかったからだ。早速、勤務先の学校図書館の百科事典や図鑑を調べてみた。結果として得たのは、きぬ貝もバカ貝も同じものの呼び名で、地域で呼び方が違うだけだというのだ。俺は、当然のことながら、きぬ貝と呼ぶことにした。


紫色の宝石

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 しかし、どの収穫よりも俺の心を躍らせてくれたのは、あのエメラルド色のガラスの宝石だ。茶色い飴色をしたビール瓶の成れの果ての輝きだ。
 ブルーの色をしたガラス片も白い色のガラス片も、いつの間にか倉庫のアルミ箔の皿に山と積まれていた。ガラス片で一杯になったアルミ箔の皿が幾重にも積まれるようになった頃、俺はうきうきして分別をしてみることにした。
 それまでは目についたガラス片を片っ端から拾っては、ズボンのポケットに入れてきたのだ。毎日、朝夕の二度の楽しい作業だった。散歩は飼い犬のポニーやクマのためという名目だったが、密かな宝探しの喜びのためだった。
 家具作りの予定が一段落したある日、家族が全員出払ったことがある。
俺は小躍りした。その日を待ちわびていたからだ。倉庫での長期滞在は家族には不評だった。大の大人が、雑然と散らかった倉庫に引きこもるのはもっての外だったのだ。
 俺は家族が玄関を出てしばらく経つと、つっかけを履いてすぐ近くの通りの角まで走った。そこから800メートル先には、JRの駅がある。はるか彼方に小さく見える家族の姿を確認すると、俺はつっかけをひきずりながら倉庫へと急いだ。
 万事抜かりないことを確かめると、俺は山積みされたガラス片の入ったアルミ箔の皿をいくつも抱えて、倉庫の地面に敷き詰めたベニヤ板の上にザザーッと広げた。まるで廃棄物処理場だ。

 ベニヤ板に広げられたガラス片を見て、俺は途方にくれた。

 しばらく呆然とした俺は、気を取り直してその一つ一つのガラス片をつまんでは空になったアルミ箔の皿に投げ込んだ。今やただのガラクタにしか見えない山積みされた廃棄物然としたものを、大きさや色で分別するのだ。
シーグラスは大きく5つの色に分けることができる。無色透明なものを含めた白、茶色、ブルーを基調とした群、そしてグリーンを基調とした群だ。それ以外の色はまとめて一つの皿に集めてみた。ところが、この群の中には他にはない本物の宝石然としたものがあり、俺の心をときめかしてくれるのだ

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 色別に分けてみると、思っていたよりも複雑な作業であることが判明した。白だと思って白の群に入れてみると、かすかにブルーやグリーンの色彩を帯びていたりするのだ。かと言って、ブルーやグリーンの群に入れると、醜いアヒルの子のように見えてしまうのだ。結局、ブルーの群に白っぽいガラス片が混在し、グリーンのガラス片の中にも白っぽいものが混在した。白の群には、ブルーやグリーンをかすかに誇示するガラス片が混在してしまうことになった。
 しかしこの混在が、俺の目に、ただのガラス片を再び宝石へと変えてくれたのだ。白ばかりが入っているはずの皿の中にかすかに放つブルーやグリーンの色は、鮮やかな色調となって俺の目を楽しませてくれたからだ。そのガラス片をブルーやグリーンの皿に入れたとたんに、その鮮やかな色は失われて、ただのガラス片に見えてしまうのだ。
 4種類の色の中では、エメラルド色のガラス片が入った皿の中身が一番少ない。やはり一番の宝石なのだ。グリーンのガラス片だけは、乾燥して輝きを失っても、茶やブルーや白に比べればはるかに美しく見える。最初の出会いがこのエメラルドグリーンだったからかもしれない。
 そのグリーンが入った皿よりも更に量が少ない皿の中には、グリーンのガラス片よりもはるかに宝石を思わせる色のガラス片が入っている。その皿の中にあるどのガラス片にも、発見した時の場面が、俺の脳裏に刻み込まれている。
 初めて紫色の輝きを砂浜で見つけたときには、あのエメラルドを発見した時の倍の感動で目がくらくらしたほどだった。あまりのうれしさに、山積みされたアルミ箔の皿に入れるわけにはいかないという衝動に駆られた。俺は家族が呆れて捨ててしまうようなことがあっても、この紫色の宝石は守らなければいけないと思った。ビニール袋に入れて道具箱の中に収めるほどの念の入れようだった。
 その紫色のガラス片をもっとたくさん見つけようと努力したことは、俺以外の人が想像できないほどだ。まるでダイヤモンドを発見した男が同じ場所を掘り起こし続けるようなものだ。
 ダイヤモンドの鉱山ではないのだから、同じ場所から見つかるはずがない。そうだと分かりながらも、散歩の途中、その場所にさしかかると丹念に探してみるのだ。波にさらわれたはずだとは分かっていても、どうしても探し出したいほどの輝きをしていたのだ。

 同じ紫色の宝石を同じ場所で発見した時には、俺は飛び上がって喜んだ。自分の目を信じることができないほどの喜びだった。執念のなせる業なのだ。
 俺は紫色の宝石は、最初に発見したと同じ場所にあると信じて疑わなかった。それは俺のただ単なる勘に過ぎないことは分かっていた。来る日も来る日も、その場所にさしかかると、俺くは腰をかがめた。そしてついに小石の隙間に埋もれるようにして身を縮めて隠れていた紫色をしたガラスのかけらを発見した。
 砂浜に打ち上げられた小石を手でかき混ぜた時に、紫色の肌をちらりと見せてくれたのだ。俺は用心深く小石を取り除け、砂をかき分けてそのかけらを指でつまみあげた。しかもその同じ時に、少し離れた場所に潜んでいたもう一つのかけらを発見するというおまけつきだ。

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 俺はその日の散歩を急遽切り上げることにして、家路へと急いだ。クマは不満げな顔をして俺を見上げた。ポニーもいつもは気持ちよくついてくるのに、その日はなかなか浜辺から離れようとしなかった。俺は構わず砂浜から30秒の自宅へと急いだ。2匹の犬は仕方なさそうについてきた。俺が倉庫のドアを開けると、クマは「ワン」とも「キャン」とも表現できない声で鳴いた。倉庫のドアは裏庭への関所だ。犬たちにとっては、散歩の終結宣告なのだ。
 俺はズボンのポケットから紫色のガラス片を取り出して、倉庫の中に差し込んでくる日差しにかざしてみた。エメラルドともガーネットとも違う輝きをしていた。キラキラ輝くというのとは違って渋い輝きだ。それでいて魅力たっぷりの輝きなのだ。俺は大満足で一番ガラス片の数が少ないビニール袋の中にそっと置いた。
 その袋には、その後、ルビーの輝きを持つ赤や、黄色いガラス片が加わることになった。


作品の作り方
と、その前に

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 さて、そろそろシーグラス作品の作り方に筆を進めなければならないというプレッシャーを感じてきた。
 俺が最初に解決しなければならないことは、作品の中であのエメラルド色の輝きを常に持たせるいうことだった。打ち寄せる波に洗われている時のエメラルドグリーンのシーグラスに出会ったときのときめきを、俺は何としても再現したかったからだ。
 海辺から持ち帰った美しいはずのシーグラスの乾燥してしまった時の姿に、どんなにがっかりさせられたことだろう。乾ききったシーグラスは輝きを失っているだけではなく、まさにガラクタとなっていたのだ。あの輝きのすばらしさを人に伝えるには、再度水に濡らさなければならない。しかも、見せている間にも容赦なく乾燥を始め、俺を失望させるのだ。
 乾いたシーグラスにその輝きを与えるアイディアが、俺になかったわけではなかった。俺がそれまでに関わってきた趣味のおかげだ。
 俺は、人に習って何かを達成するタイプの趣味の人ではない。だから、どれもこれも中途半端なことしかできない。
 俺が今まで手を出した趣味を挙げると、その修練度の低さが暴露されてしまう。唯一習ったのは革細工だけだ。俺の同僚が仕事場に作品を持ち込んで、その作り方を熱心に説明してくれたからだ。俺はその説明に熱心に耳を傾けた唯一の男性だった。

 気がつくと、俺の手元には革細工に必要な道具一式があった。

 俺はこどもの誕生プレゼントやクリスマスプレゼントには、極力手作りのものを用意するように心がけていた。
 高いお金を出して贈ったプラレールは,俺のおもちゃとしては有効だったのに、六畳の間に広げられたプラレールを走り回る特急列車とそれを操る俺を部屋に残して、息子はさっさと遊びに行ってしまうのだ。
 ならばと、これまた大金をつぎ込んでプレゼントしたレゴは、息子を一週間しかひきつけることはできなかった。気がつくと、撒き散らされたレゴの部品の真中で俺は一人で夢中になっていたりするのだ。
 俺が息子の誕生日まであと一ヶ月という頃、仕事から帰る道端で20センチほどの木切れを拾った。大金をつぎ込んでも息子の気を引くことができないとなれば、お金をかけない方がましだ、という結論に達していたからだ。

 結婚してまもなく始めた家具作りから得たヒントだ。当時は暇ができると材木屋で材木を買っては棚を作ったりなどしていた。趣味というよりは実益を求めていたのだ。ちなみに、俺の最初の頃の作品の白木作りのテレビ台は、40年以上経っても現役だった。
 俺は拾ってきた木切れにナイフを当てて、暇さえあるとそれを形に仕上げていった。目指すは、当時家族をあげて見ていたテレビアニメの「ガッチャマン」の中で、活躍の象徴ともいえる「ゴッドフェニックス」という未来型戦闘機だ。おもちゃ屋に行けばずっと精巧にできたリアルなものが手に入るはずだった。
 しかし俺はその年は手作りにこだわる決意をしていた。ゴッドフェニックス号の斜め下にあごをぐいと戦闘的に曲げた、力強いデザインに集中して削り上げた。
 誕生日に、その捨てられた木切れで作られたゴッドフェニックス号を手にした息子の目の輝きを、俺は決して見逃さなかった。
 娘や姪たちにバルサ材で作ったミニチュア家具の受けも想像以上だった。蝶番用に爪楊枝を利用した観音開きのタンスを開くと、洋服を掛ける直径一ミリの細い棒まで仕掛けておいたからだ。
 プレゼントを手渡すと、俺の頭の中は、もう次の年のプレゼントのアイディアを求めてアンテナを張り巡らせるのだ。そのアンテナに革細工がかかってきたというわけだ。
 俺が革細工に熱を入れたのは約二年間だ。そのときに作った札入れを、妻の母親は死ぬまで大事に使ってくれていた。40年以上も使っていたから、肌触りは抜群だ。俺の手元には、記念に作った旅行バッグが現役続行中だ。
しかし、革細工の趣味は俺の小遣いを圧迫した。こうして俺は次の趣味へとサーフィンしたのだ。

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 その頃、妻が友人から習ったレジンに俺は目をつけた。アクセサリーを作るために、俺は触るとすぐに壊れそうな小さくてかわいい桜貝を海岸から拾ってきた。それをネクタイピンに収めるためだ。とにかく俺はオリジナルを作りたかったのだ。その結果、アメリカで手に入れたきれいな貨幣を六角形のジャムビンを利用して、展示品もどきを作ってみたりした。レジンが固まると、かなづちを使ってビンを割るのだ。英語の授業で、アメリカの貨幣を見せるために生徒に回すと、レジンの出来ばえの方に関心が行くほどだった。デコパージュとなると、作品数は飛躍的に伸びた。40年続いている趣味の家具作りでできた端切れを甦らせることができるからだ。

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 自分で撮った写真や美術館で買ったポスターや絵葉書がデコパージュされていく。今でも当時作られた大小様々な作品が壁に交代でかけられ部屋に変化を与えてくれる。 当時担任した高校一年のクラス50人全員に希望の写真や絵を持ってこさせて、記念にデコパージュするほどの熱の入れようだった。 その中で一番緊張した品物は、生徒が家族と行ったエジプトで自分の記念として購入していたパピルスだった。俺はその生徒に何度も確認した。 「万一失敗したらいけないから、別なものにしたら?」 「いいんです、失敗しても。そのことが先生に担任してもらった記念になりますから」
 この趣味も自己流なので、ちゃんとしたデコパージュ用品を使っていたわけではなかった。家具作りの趣味の範囲を少し広げた程度のものだった。家具作りの趣味は、一番長続きしている。家具作りに少し飽きた頃に、その隙を狙うようにしていろいろな趣味をつまんでいたようなものだ。仕事が忙しくてストレスを抱えたときには、家具作りに回帰するのだ。家具作りも年と共に変遷してきた。
 1枚板をのこぎりで切って釘を打つという定番の物に飽きてくると、ベニヤ板やデコラを糊で貼り合わせるという手間がかかるものに手をつけるようになった。張り合わせる重石のために35巻からなるブリタニカを買ったようなものだ。毎月一冊ずつ無理して買った本の全集物もベニヤ板を糊付けするのにどんなに役に立ったことだろう。この方法で作ったいくつもの本棚には、その全集物やブリタニカが収まったのである。
 そのうち、俺はオリジナルにこだわり始めるようになった。そして思いついたのが、釘を使わない分解・組み立て可能な家具だ。僕の身長以上の高さの本格的な作品だ。そのおかげで、後にやむを得ず引越すときには、分解して運び、組み立て直すというチャンスに恵まれた。

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(約半年かけて作ったcupboard-食器棚)


作品の作り方
接着剤を決める


 デコパージュにしても、革細工や家具作りにしても、大切な仕上げは最後の上塗りである。
 実はこの仕上げとしての上塗りが、シーグラス作品を作る時の役に立つのである。この仕上げこそが、ガラクタ同然のシーグラスに命を吹き込む大切な役割を果たすことになるのだ。
 波打ち際で俺に感動を与えてくれたエメラルド色のシーグラスが、わずかな時間でその輝きを失いがっかりしたことを思い出す。その失望感のおかげで、シーグラスのアートに挑戦する気持ちが湧き上がったのだ。それまでの趣味の遍歴の中にヒントがあることに気づいてはいたが、仕事の忙しさのために、新しい挑戦に取り組む気力がなかなかわいてこなかっただけだ。その気力がわくまでの時間は、海岸でシーグラスのかけらを集めることで満足させていたのである。
 近いうちに必ずシーグラス作品の作成に取りかかるぞ、とひそかに心に決めるだけで前進しないのだ。意気込みだけは海岸に打ち寄せる波のように、寄せてはまた返して沖の方に流されるのだった。時たま倉庫の中で拾い集めたシーグラスの山から、いくつかを手に取って眺めるだけの日々が延々と続いたのだ。

 しかし、ついにその日がやってきた。

 俺は急に思い立って、近くのハードウェア・ストアに出かけた。いつもなら、大工道具を陳列している場所をうろつくのだが、その日は接着剤が陳列している棚を目指した。そこで手に入れたのが、ガラスなどを接着するものだった。それまでにも、いろいろなものを修理するために接着剤を利用していたので、ガラス用のものがあることは分かっていた。しかし、それが高価なものであることも分かっていたので、買うのを躊躇していただけだ。
 A剤とB剤、二つの小さなチューブが並んだガラス用の接着剤は、シーグラスのオブジェを作るには少なすぎた。何の形にもならないうちに接着剤はなくなってしまったのだ。
 仕方なく、俺は大きめの接着剤を買うことにした。セットで800円前後の代物だ。
 帰宅すると、俺は時間を惜しんで作品作りに取り掛かった。

 実は何を作っていいのか全然見当もつけていなかったのだ。そこで、その頃ぼくが手がけていた、紙細工で作ったドイツのノイシュバンスタイン城をモデルに選んでみたのである。

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(これがノイシュバンシュタイン城だ~っ!)

 気の遠くなるような作業が始まった。二種類の材料を混ぜ合わせては、貯えてきたシーグラスの中からこれはと思うものを探し出して積み上げていくのだ。そして、一度に積み上げることができるのは、せいぜい二つか三つしかないことを経験するのである。
 接着剤が強度を安定させるのに1、2時間もかかるからだ。それまでは、上に積み上げることもできない。乾くまでの時間は、仕事をしたり、他の趣味を楽しんだりするのだ。だから作業に集中できない。
 気がかりになってシーグラス作品の場所に行ってみると、乗せたはずの場所からシーグラスがずるりと落ちかかったままの状態で接着されていたりするのだ。それを取り除いては再度トライしてみる。うまく予定通りの場所に予定通りの状態で接着されるのを確認すると、さらにその上に積み上げていく。時間のかかる作業が待っていることにその時になって気づく始末だった。
 何日もそのような状態が続いた末に、ようやくお城に見えるオブジェ風のものが出来上がっていった。完成とはいえない代物だったが、俺には十分すぎるできばえだった。

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 そのオブジェが完成すると、俺はシーグラスに輝きを与える作業に入ることにした。家具作りでお世話になった塗料か、デコパージュで使った塗料のどちらにするか迷った程度のことだ。だから、手元にあったデコパージュ用に使用したニスを塗ることにした。
 ニスを刷毛につけて塗ると、シーグラスに輝きが再現されたのだった。俺は小躍りしてせっせと刷毛を動かした。一度塗りよりも、数度塗り重ねると輝きを増すことはすでに経験済みだ。だから、一度塗り終えて乾くと、俺は刷毛を取り出して一生懸命に塗り重ねてみた。
 仕事から帰って、最初にすることはシーグラス作品のできばえを確認することだった。そして、それは俺を満足させてくれた。見事なオブジェの処女作品の完成だった。
 完成した作品をリビングルームに運ぼうとした。作品は見た目以上に重かった。ガラスとは、重いものなのだ。

 「これ、ヨーロッパのお城みたい」

 リビングルームに置かれた作品をみて、妻が言った。
 俺はその言葉に大満足だった。
 当初の目標のノイシュバンスタイン城からはほど遠かったものの、その言葉で十分だった。地道な苦労が報われたというものだ。
 ところが、このドイツのお城に変化が起きてしまったことが、俺の意欲をそぐことになる。

 完成から1,2ヶ月が経った頃だ。

 仕事を終えて帰宅して、シーグラスのオブジェを眺めていた。シーグラスの接着部分に色の変化を発見したのだ。透明の接着剤だと思っていたのに、黄色っぽく変色していたのだ。しかも、シーグラスに輝きを復活させていたはずのニスにも変化が起きていたのだ。白や透明のシーグラスが黄色っぽく変色していた。俺は落胆した。がっかりした。俺のシーグラスアートがまだまだ未完成であることを実感した。
 少し作成過程に変化をつけて、作品を作ることにしてみた。第2作目の挑戦だ。
 お城のようなオブジェを作成するには時間がかかりすぎる。もしかしたら、シーグラスをがっしりと積み上げたことが、変色の原因かもしれないとの淡い思惑もあった。
 そこで、一列に積み上げるだけの作品にしてみようと思った。花瓶のような形ならその実験に適している気がした。
 これは予想をはるかにしのぐ根気のいる作業だった。お城作成の時には、数列にシーグラスを並べながらの積み重ねだったために、ガラス片同士がお互いを支える機能を果たしてくれた。真中辺りは接着剤をつけてただ乗せさえすれば、時間が解決してくれた。気をつけるのは、外側の列に積み重ねる時だけだ。しかも、部分的に大きなガラス片を使えば、それが支えとなってくれたので、ほとんど問題は生じなかった。

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 花瓶風のものは、ガラス片を一列に積み重ねる作業だ。油断をすると、接着剤が納豆のような作用をして、ガラスの重みを支えることができず、ずるずると滑り落ちる。
 俺は作成の初期の段階で作業を中断することにした。そして、接着剤を売る店に駆け込んだ。それまで使用していた硬化時間が90分型のものをやめて、5分間で硬化が始まるタイプを購入してみたのだ。
 帰宅してすぐに接着作業を再開してみた。これがまた困難な作業であることが判明する。

 2種類の接着剤を同量混ぜてから、すぐに作業を始めなければならない。このことがどんなに大変なことかを知ることになった。90分型を使用していた時には、慌てずのんびりと作業をしていたからだ。
 5分型ともなれば、特に夏季には想像以上の速さで硬化が始まり、使用するガラス片を選んでいる間に、接着剤が固まってしまうのだ。そしていざガラス片に接着剤をつけようとしたときには、すでにA剤とB剤の化学反応が終了していたりする。そんな具合だったので、どれだけの接着剤を使用前に硬化させてしまったか分からない。接着前に硬化してしまうと、無駄になるのだ。
 今でも、接着剤のA剤とB剤を混ぜ合わせた途端に電話が鳴ったり、客が来たりして、一段落すると接着剤はとうの昔に固まってしまっていることなど、しょっちゅう起きている。
 しかし、5分型の接着剤に慣れてくると、シーグラス作品を作るスピードが飛躍的にアップする。90分型の接着剤を使用していた時には、1時間から2時間という単位で作業工程を考えていたものが、7、8分もすれば次の作業に入ることができるからだ。
 出来上がった花瓶風のオブジェの完成度は、思いのほかよかった。満足できるものに仕上がった。
 しかし、お城風のオブジェの時に体験したのと同じ問題に直面することになった。時間が経つと、接着剤が黄色く変色してきたのだ。また、輝きを与えるために使ったニスは、白いはずのシーグラスを薄い黄色に変色させてしまうのだ。薄黄色のシーグラスはそれなりによい色だと考えることもできるのだが、白い色や透明の色をしたシーグラスが変色しているのは、俺には不満だった。
 この失望感のせいで、シーグラスアートの作成は中断することになってしまった。試作のオブジェを作ったことで、貯えていたシーグラスの量が激減してしまったことも影響した。ガラス片を使用する量が半端ではないことに、その時になって初めて気がつく始末だった。
 俺は相変わらず、海岸にクマを連れて行った。相変わらず俺のズボンのポケットには、砂と一緒にシーグラスが投げ込まれた。大小様々なシーグラスが倉庫のアルミ箔に蓄積された。

10
作品の作り方
それよりシーグラスを集めなきゃ

 ある晩秋の夕暮れ時に散歩をしていると、道路の近くに思いも寄らない形と色をしたビンのかけらが目に入った。拾ってみると、割れた場所はとげとげして手を切ってしまいそうだった。波打ち際から離れていたために、シーグラスとは言えないものなのだ。俺はそのガラス片をシーグラスに変身させる実験を思いついた。
 最近は近くの海ではサーフィンをする若者が見られるようになった。最初の頃は波に置いて行かれていた初心者も、1、2年もすれば、無事に波に乗ることができて自慢気だ。誰かに見てもらいたくてうずうずしているのが手に取るように分かる。そんなときには散歩の足を止めて、その若者の方に目を向ける。うれしそうだからである。
 シーグラス収集を始めた当時は、まだ冬に海に入る者はいなかった。だから実験を思いついたのだ。
 道路近くで拾った割れたガラス片を、海に投げ入れるのが実験の第一段階だ。あとは待つだけである。夏になって、そのガラス片が波打ち際に打ち上げられることを祈るのみだ。このような実験は、それが最初で終わりだ。
何故そのようなことを思いついたかと言えば、紫色のシーグラスを発見した経験からだ。同じビンのかけらだと思わせるガラス片が、同じ場所に複数打ち上げられていたのだ。それも、数年にわたって発見することができたのだ。1年に2つか3つしか見つからないのに、同じ近辺から発見される。海の波には自然の掟があるように感じられた。

 果たして晩秋に投げ込んだガラス片は、翌年の夏に散歩をしていると、ぼくの目の前に忽然と姿を現した。色も形も投げ込んだ時とほぼ同じ状態で姿を現した。違っていたのは、つるつるのガラス片だったものが、すりガラスのように表面が削られて見た目に悪いものになっていたことだ。それこそが俺が求めていたシーグラスなのだ。割れた場所もすっかり削られて丸みを帯び、手を切りそうだった箇所も、いくら触れても怪我をするはずのないものとなっていた。
 発見した時には、ありえないという気持ちで半信半疑だった。いくら実験を企てたと言っても、それが実現してみると、不思議な気持ちだ。この実験結果は偶然のなせる業だったのかもしれない。それ以降、再実験をしていないからだ。また、再実験をする気持ちにもなっていない。サーフィンをする若者の足を怪我させるわけにはいかないからだ。

 俺のシーグラス収集の散歩は、作品が作られないまま毎日続けられた。アイディアが浮かばなかったのだ。黄色に変色するのを防ぐ手立てが思いつかなかったのだ。試作品のオブジェを作るのに、あまりにも時間がかかりすぎたのだ。いくら考えてみても、もっと手早く作品を作る方法が思いつかなかった。作品を制作する時の接着剤が厄介な存在だったからだ。
 細かい作業をするときには、つい指先でシーグラスを支えながら接着を試みる。すると、どうにも始末に負えないことが起こる。接着剤が指にくっつくのだ。べとべとしたその感触は気持ちのいいものではない。
 ある朝、庭に置いてあるシイタケの菌を植え付けたホダ木に近づいた。シイタケを収穫するためだ。ホダ木を置いている場所には、ナメクジ退治のグッズを置いていた。成長を始めたシイタケはナメクジのご馳走なのだ。
 ホダ木に近づくナメクジは、俺が一匹ずつピンセットでつまんで退治する。ピンセットはすぐに取り出せるようにホダ木のそばに置いていた。
 その日もナメクジは容赦なくホダ木に近づいて虎視眈々と構えていた。俺はピンセットを手にした。そのときに思いついたのが、接着剤退治の方法だった。ピンセットを指の代わりに使えば、べとべとする接着剤を苦にしなくてすむと考えたのだ。そして、この考えは機能した。場所によっては指よりも細かい作業を可能にしてくれた。

11
自主退職


 俺はかねてから、60歳で退職することに決めていた。俺は私立の高校で30年間勤めてから、同じ法人内の大学に籍を移していた。勤めていた大学の定年が65歳だったから、自主退職ということになる。2005年の3月のことだ。実は、自主退職という言葉を、俺は退職するまで知らなかった。職安に行って書類をもらった時に、自分の退職理由が「自主退職」であることを知ったのだ。だから、失業保険はもらっていない。
 退職と前後して、俺は海水浴場の近くの一軒屋から、関門海峡を挟んだ反対側の北九州市に移転した。こども時代を過ごした地区に引っ越したのだ。
新しいマンションの11階に居を構えたのにはそれなりの理由がある。交通の便のよさに加えて、妻の実家が近いこともその一つである。マンションの周辺には旧知の場所が点在している。どこを見ても懐かしい雰囲気で満ちている。そして、何と言っても、居住空間の3面を囲んでいるベランダが決め手だった。
 俺が自分の居場所に決めた部屋には、2面にベランダがある。そのベランダこそが、俺のシーグラス工房なのだ。
 一戸建てから引っ越す時には、それまで買い蓄えてきた多くの家具や書籍を処分してしまった。マンションの居住空間は一戸建てよりも狭かったからだ。
 でも、俺は貯えてきたガラクタを密かにベランダに運び込んでいた。2つのプラスチックの引き出し箱には、長年月散歩の度に拾い集めたシーグラスがびっしりと詰め込まれていた。家族には内緒だった。俺にとっては、家具はどうでもよかった。シーグラスこそが宝だった。それぞれ半年余りをかけて自分が作った家具もいくつか宝として運び込まれた。これは家族公認のものだ。役に立ってきたからだ。
 引っ越してから10ヶ月ほどして、俺は自主退職をした。それからが、ベランダのシーグラス工房での俺の本格的な活動の始まりだ。作品が黄変することを防ぐのが、最初の課題だ。
 そのために俺は新たな作品を作ることにした。俺は花瓶風の作品作りで、シーグラスをただ積み上げていく手法に早くも限界を感じていた。積み上げたガラス片が、思った場所に接着されず、ずり落ちる経験を頻繁にしていたからだ。
 それを解決することの方が最初にすべき課題であることに気づくのに、そんなに時間はかからなかった。

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12
円錐型


 俺は趣味を始める時に、あまりお金をかけるのは好きではない。お金がかかりすぎると、趣味の範囲を超えてしまいそうな気がするからだ。そのくせ、革細工にしても、家具作りにしても道具代にはせっせとお金をつぎ込んできたことも事実だ。
 幸いなことに、シーグラスアートでは接着剤とニス以外はわざわざ買わなければいけないものはない。俺は、なんとかその路線を守りたかった。
 俺のベランダには、一戸建てから運び込んだ鉢植えがたくさんある。引越し屋さんが、こんなに鉢植えを運ぶのは初めてですよ、と俺に言ったほどだ。そんなことを言われても、俺としてはたくさんあった鉢植えを厳選して運び込んだのだ。
 ベランダで鉢植えの世話をしている時に、ふと、空いたプラスチックの鉢が目に入った。逆さにして置くと、上に向かうに従って直径が小さくなっていく円錐形という形状が目についたのだ。これならシーグラスを積み上げていく時に、鉢が支えになってくれるのではないか、とふと思いついたのだ。
実際に実験的に積み上げてみると、果たして思った通りの成果を得た。
 鉢を台の中央に置いて、下から順にガラス片を積み上げる。積み上げる時に、プラスチックの鉢にガラス片の比重をかける。すると、鉢はガラス片を支えてくれ、時間が経てば硬化して形が定まるのだ。5分型の接着剤を使用するようになっていたので、10分も我慢すれば結果を確認できる。つみあげたガラス片の固まりを静かに鉢から取り外すと、見事に分離したのだ。鉢が上に行くにしたがって直径が小さくなっているのは、円形に積み上げられたシーグラスを外す時に便利なのだ。接着剤はプラスチックにはくっつかないからだ。こうして新たな試作品が完成した。

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 のちに、プラスチックの鉢をあらかじめはさみで切ってから、シーグラスを積み上げることを思いついた。鉢の内側をセロテープでつけておくのだ。こうしておくと、シーグラスと鉢を分離する時に、鉢を縮めてシーグラスの固まりを簡単に外すことができるからだ。
 実は俺は変色するのは接着剤に問題があると思っていたので、試作品の作成を始める前に接着剤を変えておいた。この試みは成功した。接着部分が黄色く変色する問題はこれでほぼ解決した。
 これに元気付けられて、俺はニスも変えてみることにした。それまで家具作りでいろいろなニスを使っていたこともあって、それまでに使用したことのないニスを試してみたのだ。家具の場合は、透明ニスを使用して変色することがあっても、問題はあまり起こらない。むしろ、変色することが家具の色に深みを増すことだってあるからだ。
 いくつかのニスを試してみて、俺はようやく色が変色しない透明ニスを見つけることができた。

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 そのニスを塗ってみると、時間が経っても、白いガラス片が透き通るような透明な輝きを持ち続けた。あのエメラルド色のガラス片はますますその輝きを増していた。
 俺はすっかり満足した。
 2005年の8月のことであった。
 その試作品を台に載せて、夜が来るのを俺は心待ちにした。それまでは、シーグラスは置物として作ってきたのだが、そのときには、俺の考えは少し変化していたからだ。
 プラスチックの鉢を見て、アイディアが浮かんでいたのだ。それはガラス片を積み上げるときの便利さに、完成した時の利用価値を上乗せするアイディアだ。上になるに従って直径が小さくなる円錐形のオブジェの中にアロマテラピーで使用するろうそくを点けてみたのだ。
 オブジェの中でちらちらゆれるろうそくの明かりは、シーグラスを通して美しい光を周りにばらまいた。ろうそくの明かりがガラス片の色に応じた輝きを外に撒き散らしてくれたのだ。
 俺はその作品を売ることを決心した。売れるということは、俺の作品が人に評価されることの証だと思っていたからだ。

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13
インテリアの店のオーナー

 俺が10年ほど前に思いついたシーグラスアートは、日本では未開拓のジャンルだと勝手に決め込んでいた。だから満足できる完成品ができるまでは、この秘密を誰にも漏らすまいと決めていた。
 このアートに取り組み始めてから、テレビでシーグラスアートのことが報じられるようになってきた。俺は心中穏やかではなかった。俺は心の中で、「自分の方が最初だ」と一人で叫んだものだ。
 事実、俺のような作品をまだテレビで見たことがない。俺はオリジナルにこだわった。手間がいくらかかっても、自分しか作らないオリジナルでありたかった。ステンドグラス風に黒い枠を用いたものを見かけたこともある。一見似たような作品がテレビ画面に映し出されることもあるが、本質的には異なると思っている。中には本物のシーグラスに似せたシーグラスもどきで作った作品も見たことがある。
 俺は作品が完成してからは、作品を持ち込む店と時期をどうするか考えるだけで、一人でわくわくしていた。
 円筒形の作品の中でチラチラゆれる明かりを見ながら、俺はその年のクリスマスに店に展示される自分の作品をイメージした。アルミ箔の皿に色分け
された分だけの色に輝く作品が、クリスマスのイメージと重なったのだ。
 こうして俺は、その年のクリスマスを心待ちにした。それまでの間、俺はベランダ工房で、ゆったりと作品作りを続けた。
 クリスマス展示に向けて、俺は特に奇抜な作品を用意していたわけではなかった。そんな余裕など全くなかったのだ。ろうそくの明かりに照らされるシーグラスの輝きが気に入っていたために、ほかの事を考える気持ちが浮かばなかったのだ。店に置いてもらえるかどうかさえ確定されていたわけではなかったからだ。

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 俺にシーグラス作品を展示してもらえる店を探す手立てはほとんどなかった。自分の足でいろいろな店を歩き回って、作品展示に適しているかどうかを当てもなく探し回った。店に展示するつもりなどということは、家族には内緒の事項だった。
 俺はクリスマス展示の直前に作品を持ち込む予定にしていた。俺の心積もりとしては、それは11月初旬だった。だから夏が過ぎて、9月も後半になると、毎日が過ぎていくのが遅く感じられた。店に持ち込む時のことを考えると、落ち着かなかった。断られるのが怖かったのだ。断られる時のことを想像するだけで、胸がつぶれそうなプレッシャーを感じていたのだ。仕事のプレッシャーとは違うものだ。仕事のプレッシャーは自分がそれに向かっていけば解決していくことを経験していた。だからそのプレッシャーが開放感に包まれることを予想しながら仕事をすることができた。しかし、展示に関しては断られてしまえば、それで万事休するのだ。
 そんなことを思っているうちに、10月も半ばが過ぎ、後半に突入していった。俺は毎日、今日にしようか、明日にしようかと思いあぐねていた。少しでも早すぎると、断られそうな気がした。そのくせ、遅すぎると、それはそれで断られそうな気がした。だから、毎日が戦いだった。
 俺が近くのインテリアの店に展示を頼むことにしたのは、10月中旬だった。親戚の者が、俺の計画のことは全く知らないまま、その店のことに言及したのだ。俺はその店の2階で妻とコーヒーを飲んだ。店の雰囲気を知りたかったのだ。

14
ついに売れたっ!


 薄暗い2階には、食事をするスペースがあって、入り口付近に俺が好きそうな品物が展示してあった。薄暗いコーナーは静かな明かりの中に展示品が浮き彫りに照らされていた。俺の気持ちは固まった。
 10月下旬のある夕方、俺はその店に作品を持ち込んだ。俺の作品は、30数年前に自分で作った革のバッグの中に収められていた。何とかして自分のアピールをしなければと思っていたからだ。
 パソコンで作った名刺には、自分の住所と電話番号を入れ、作成した試作品の写真を印刷した。
 店の外側には2階に向かうなだらかな坂があって、自動ドアが俺を迎えてくれた。自動ドアが開く前に、俺は深呼吸をした。
 実は家を出る直前に、俺は妻に作品を店に出す計画であることを初めて伝えてみた。

 「えっ? 本気なの? まさか本気でそんなことを考えているとは・・・」

 妻が絶句というよりはあきれている様子を、自動ドアの前で思い出した。断られたら返す言葉がないのだ。
 思い切って店に入ってみた。俺の勢いはすぐに萎えることになった。オーナーが不在だというのである。断られたわけではない、と自分に言い聞かせながら、俺は家に帰還した。

「どうしたの? やっぱりダメだったの?」
「いや、オーナーがいなかったから、また別な日に出直すことにしたよ」

 俺は自分の部屋に入って着替えをした。どっと疲れを覚えてリビングのソファーに身を横たえた。頭の中は次回はいつにしようかなどとぐるぐる回転しっぱなしだった。

 「またしょんぼりと帰ってくるに決まってるよ。本気で売るつもりなの?」

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 俺は玄関で深呼吸をして出かけた。自信はなかったが、絶対に売れると思っていた。
 俺は気を取り直して、革のバッグ(タイトル8の写真)に作品を入れて、インテリアショップの自動ドアの前に立った。

 「シーグラスってご存知でしょうか?」
 俺は恐る恐る自信なさ気にオーナーに言った。
 「ええ、知っていますよ」
 「実は今日はシーグラス作品をお店に置いていただきたいと思って、伺ったんですけど」
 「商品を見せていただきましょうか」

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 俺は革のバッグから作品を一つずつ取り出した。最初の作品を取り出しながら、オーナーの反応をうかがった。上目使いに相手の目を見ながら全神経を集中させた。
 オーナーは俺が取り出した作品を受け取った。その眼差しは、明らかに作品に反応していた。店の天井から落ちてくるかすかな明かりに作品を透かして見ていた。

 「これは売れますよ。こんなにきれいなシーグラスを見たのは初めてです」

 俺の胸の鼓動は急速に速まった。心臓が俺の内部で小躍りした。頭の中は何が何だか分からない状態だ。

 「私も海岸でシーグラスを拾ってきたことがあるんですよ。で、波に洗われている状態のシーグラスの美しさを、どうすれば保てるか考えてみたことがあるんですよ。金魚鉢の中に入れてみたりしました。でも、水に濡らしていない状態でこんなにきれいにできているのを初めて見ました。うちに置いてみましょう。必ず売れます」
 「クリスマスシーズンに向けて置くといいと思って、今まで待っていたんです」
 「うちの店が明日からクリスマス仕様に模様替えをしますからちょうどよかったです。でも、これは年間を通して売れると思いますよ」

 俺のマンションはその店から徒歩5分程度のものだ。しかも車で行ったのであっという間にマンションの入り口だ。車を運転しながら、俺の興奮は尋常なものではなかった。車をジャンプさせたい気分だった。
「ただいま」
「どうだった?」
「置いてくれるって」
「えーっ、ほんとーっ?」
 俺は誇らしい気分だった。シーグラス作品を考えた当初から、自分の作品を店に置いてもらうのが夢だったからだ。どの店にしようかと思案した甲斐があったというものだ。店のオーナーの思いも寄らない好反応に酔いしれていた。
 俺は形状の異なる2種類の作品を置いてもらった。積み重ねたタイプの作品を3つ、平らにつなげたタイプの作品を2つだ。積み重ねた方が手間がかかっていたので、値段も高く設定してきた。
 11月6日の土曜日の午後、電話がなった。インテリアショップのオーナーからのものだった。

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 「売れましたよ。火曜日に店に置いてから、毎日一つずつ売れました。値段の高い方から順番に売れていきました」

 こんなに順調な反応があるとは想像もしていなかったので、電話を切った後、俺は放心状態だった。オーナーの言葉を反芻した。そして、自分の作品が売れたのだということを確信することができた。俺のシーグラスアートが認められたのだ。
 それから三日後、俺はインテリアショップに出かけた。新たな作品を4つ、持ち込んだのだ。
 それからの日々は、俺のベランダの工房では、シーグラス職人がせっせと作品を作成した。夜はベランダに電気を点けて作業をする勢いだ。
 週に2度の大学での非常勤の仕事が午前中に終わると、俺はその足で海岸に出向くことが多くなった。干潮の時刻が帰宅の時間帯と重なるのは、約2週間に1度だ。
 大学から以前住んでいた海岸までは少し遠いので、俺は関門トンネルの下関側の人道入り口付近のみもすそ川という地名の海岸に足を運んでみた。
 源平合戦の紙芝居をしている横を抜けて階段を降りると、干潮時には海岸が姿を現して俺を迎えてくれる。
 (現在は降りることが出来なくなっているー噂によればテロ対策だ)
 初めてその海岸に降りてみて俺はビックリした。そこには玉石とシーグラスが同じくらい散在していると思えるほどだった。どこを見てもシーグラスが溢れていた。用意していた袋は、1時間もしないうちに満杯になった。
 作品作りのための需要と供給のバランスが、この海岸に行くようになってから、かなり安定するようになった。
 俺の作品作りのピッチが速くなった。いわゆる店に卸す在庫がなかったからだ。たくさん作っても、売れなければそれこそガラクタになってしまう。しかし、作品は順調に売れた。
 ところがしばらくするうちに、作品が売れなくなる時期が訪れた。
それまでと同じように作っていたのに、売れる数が減少し始めた。少し味付けをしてみたが、売れ行きが鈍化を始めた。

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 5月頃、俺は原点に戻ることを思いついた。非常勤の仕事を終えると、以前住んでいた近くの海水浴場へと車を走らせた。遠浅のこの海岸では、潮の状態は問題ではなかった。いつ行っても、シーグラスにお目にかかれる。慣れ親しんだ海岸を歩きながら、シーグラスを拾い集めた。そしてあることに思い当たったのだ。
 俺のベランダ工房では、その海岸で集めたシーグラスはほとんど底をついていた。新たに収集場所となったみもすそ川の海岸で拾い集めたものが大半だ。
 犬を散歩させていた海岸は砂浜で、波加減によっては小から中程度の玉石が姿を見せる。その一方で、みもすそ川の海岸は、関門海峡の速い潮の流れのせいか、中から大の玉石が常に俺の足元を危うくする。その結果、砂浜で岸で拾うシーグラスは、小さく薄く削れている。みもすそ川の海岸のそれは、どちらかというと大柄で分厚い。俺の住んでいた近くの海岸のシーグラスは和風に感じられ、もう一方のものは洋風なイメージを持つ。
 俺は改めて犬の散歩場所の海岸で拾ったシーグラスを中心に作品を作ってみた。そして店に置いてもらった。果して、その作品は売れたのだ。俺の原点への回帰が成功を生んだのだ。
 ついでに、みもすそ川海岸のシーグラス中心に作った作品も置いてもらった。やはり売れ残り、俺は商品を引き取った。他で入用だったのが幸いだった。
 相変わらず俺はみもすそ川の海岸に出かける。犬の海岸で見つけるガラス片に近いものだけを探す。だから袋が満杯になることはない。厳選されたものだけが集められるからだ。
 俺の血液型はB型だ。だからかどうか怪しいが、一つのことに執着しない。だから、今ではあのプラスチックの鉢を頼りに作る作品はあまりない。
ピラミッド型や三角錐、灯台のイメージで作られた作品に移行している。規模も大きくなっている。高さ30センチで、底は一辺が20センチの正三角形を形成しているものもある。
 新聞の広告の中に、A4の広告紙をセロファンの袋に入れたものがヒントをくれたのだ。
 A4の白紙に立体の面の型を書き込んで、袋に入れる。一方、三角柱に折り曲げたダンボールを横に寝かせて、型紙を入れた袋を持たせかける。三角錐なら3枚の面を別々に作り上げる。後に丁寧にその3枚を小さなシーグラスでつなげていくという手の込んだものだ。これも慣れてくると楽しい。百円ショップで手に入れた回転する鉢受けがロクロの役割をしてくれるからだ。一箇所を接着すると、ロクロを回す。次の辺を接着してまたロクロを回すのだ。一回転する頃には最初に接着した箇所は硬化している。硬化が確認できると、さらにその上の方を接着していくのだ。
 このようにして作った作品は、ろうそくの明かりでは弱すぎて、その美しさを味わうには不足だ。
 俺は仕方なく近くの電器の部品を売っている店を渡り歩いて、5~10ワットの明かりを楽しめるものを手作りしてみた。部品だけで1000円弱もすることが問題だ。しかし、それでもろうそくの明かりよりも効果が大きい。
 俺は自分の手作りの労力は無視して、原価で分けることにした。買ってくれた人が作品を楽しんでくれる方がうれしいと思ったからだ。当時は作品に電気具一式をセットで店においてもらっていた。
 俺は散歩の途中に時々百円ショップに立ち寄る。買うあてがあるわけではない。面白い形のものが目に入るとそれを買って帰る。シーグラス作品にアイディアをもらうためだ。灯台風のオブジェもそこで購入した木製の灯台からヒントをもらったものだ。
 灯台の場合はピラミッドなどとは違い、六角形だ。6枚の同じ大きさの台形の面を作りロクロに乗せる。ロクロを回しながらそれらの面を接着するのだ。接着が完了すると、その上に灯台の明かりを放つ小部屋を乗せる。灯台の中に置いた10ワットの明かりは灯台全体を中から照らしてくれる。それぞれの面から各種の色や形を浮き上がらせて、暗闇にアートの妙味を撒き散らすのだ。

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 家族に勧められて百円ショップで額縁を買ってきたことがある。中にしだれ梅ともしだれ桜とも取れるイメージのものを、小さなシーグラスを時間をかけて接着していった。まるで、シーグラスで絵を描くような作業だった。しかし何となくインパクトを感じなかったので、俺は自分の手作りの飾り棚に飾っておいた。2ヶ月以上そのままにしておいたのだが、家族が勧めるのでインテリアショップに持ち込んでみた。
 「これはどんなでしょうか」
 俺は何故か逃げ腰だ。
 「これはだめでしょう。やはり明かりがないと無理でしょう」
 俺はこの返事にそれまで持っていたもやもやが吹き飛んだ。うまく表現できたとは思っていたが、足りないものをずばり指摘されたからだ。
 俺日、俺は木の枠を取り壊して、その作品を三角錐の一面に使うことにした。おかげで自分が描いたしだれ桜も中からの明かりが照らし出してくれ、生まれ変わった。ここでもガラクタがアートに変身したのだ。

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 俺がシーグラスアートにはまっているということを知っている人たちが、もっといろいろな店に出させてもらったら、などと勧めてくれる。そうすれば、もっと売れて楽しいということらしい。でも、俺はその気持ちはなかった。たくさんの店に出せばそれだけたくさん売れることは間違いないのだ。しかし、そうなれば、作る楽しさが失われそうな気がするのだ。俺には、アイディアを思い浮かべる時間の方が楽しい。そのアイディアを形にするのが楽しい。それが「売れる」ということを通して評価されるのが楽しいのだ。
そんなことを思いながら、どこかのアート村に入り込みたい衝動に駆られている。そこに入り込めば、思いっきりアート三昧の生活が待っているような気がするからだ。もっと斬新なアイディアも生まれてくるような気がするからだ。それまで、ほんの少しのゆったりとした時間を現在過ごしているのだ。

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シーグラスアート作成順序

 ついに漸くたどり着いたのが、このアートの作成順序だ。今まで記述してきたことの箇条書きだ。この箇条書きを見せたことがある。ずっと以前のことだ。その人はそれを夫に見せたそうだ。そして、その夫ー俺はあったことがないのだがーは早速この作成順序に従って作り始めたというのだ。これには驚いた。きっとうまくいかないのではないかと案じた。俺が何年もかけて暗中模索したうえで仕上げてきたつもりだからだ。案の定、最初は苦労したらしい。それでもめげずに根気よく続けたそうだ。そしてかなり良いものができたと、その夫の奥様から報告を受けた。すごい方ですね。俺はそう夫に言ってくださいと話した。

では、順序を箇条書きにしてお示しする。

一、 海岸でシーグラスを収集する
 小さめのシーグラスは砂の多い浜で収集するとよい。ただし、たくさん集めることができないのが難点だ。それに比して、たくさん集めたければ、小石交じりの浜がよい。大きな石が集まっている場所には、大きなシーグラスを見つけることができると期待してよい。きれいな砂浜ではシーグラスを見つけるのが難しい。
二、 拾ったシーグラスを洗う
 シーグラスには塩分がこびりついているので、一つひとつ丁寧に洗うことが肝要だ。ここで手を抜くと、アートにする時にきれいな輝きを得ることができないことがある。

作業中3 (塗る前 - コピー - コピー

三、 乾燥させる
 これは洗ったあと、(できれば)山のように積み上げるような置き方をしないで、一つずつ平らに置くと早く乾燥してくれる。

作業中3 (塗る前 - コピー

四、 ニスの一度塗りをする
(最初にしておくと、接着した時に塗り残しがない)
 乾燥する場所と同じ場所が使えれば、乾燥した状態でニス塗りをすると楽だ。小さめのシーグラスをニス塗りするときには、刷毛は細いものがよい。大きめのシーグラスの場合は太い刷毛の方が早く塗ることができる。時にはシーグラスを動かさないといけないことがあるので、竹串のようなものを用意しておくと意外と便利だ。

作業中4(塗った後 - コピー

五、 接着剤で接着する
(これが一番大変)
 プラスチックの鉢を使う場合、まず下の方には少し大きめのシーグラスを乗せていく。
 そのときに、ピンセットでシーグラスをつかんで裏側に接着剤を塗る。塗る前にそれを乗せるシーグラスの大きさとのバランスを確認しておく。
 接着剤は裏側全面につける必要はない。半分程度つければうまくくっついてくれる。ただ、シーグラスはほとんどが曲がっているので、下のシーグラスと接触する面がどこになるかを確認しておく。
 手を汚したくない人には、使い捨てのビニール製の手袋が役に立つ。しかし、手袋をしていると細かい作業が難しくなるので気をつけよう。百枚入りの「天然ゴム極薄手袋」(約350円)も便利だ。何度も着脱する場合には、この手袋の下にビニール製の使い捨て手袋をすると無駄が少なくなる。

 下記は、作品を積み上げていく過程を目に見える形で写真を載せてみました。

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作業中1 - コピー
作成途中1 - コピー
作成途中2 - コピー
作成途中3 - コピー
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六、 出来上がった作品にニスを上塗りする
 接着剤が乾いてオブジェが完成したら、全体にニスを塗る。この時には刷毛は大きめのものが早く塗ることができる。できるだけ隙間にも刷毛が入るように塗り上げていく。
 このニス塗りを二度から三度するとよい。接着した隠れた部分は最初にニス塗りをしているのでよいが、それをしていないと、きれいにならない箇所ができるので手を抜かないことが肝要だ。
七、 仕上がったら、丈夫かどうかを確認する
 接着面が少なかったり、接着剤が硬化し終えているのに無理に接着したりすると、出来上がったあとで壊れやすくなるので気をつける。確認のために、オブジェを手で握って前後左右にほんの少し力を入れて動かそうとしてみる。そのときにガシャッとした感触があれば、壊れやすい品質なので、さらにシーグラスを追加接着して強度を上げる工夫が必要になる。そうならないためには、組み立てる時から一つひとつのシーグラスの接着には手を抜かないように気をつける。

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