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読んだふりで逃げ切りたい近代文学

ここ数年、日本の近代文学(明治~昭和初期)の全般的な知識が必要な仕事をしている。(文学・出版系ではない)

読書は嫌いではないが、日本の近代文学の大半は(私にとって)読書に苦痛を伴う。

まず、難しくて解説がないと何言ってるかさっぱりわからない。

昔の文人とそれを読んで理解できる読者なんてそもそもインテリばかりなのだから、(例外もあるが)庶民が娯楽で読めるはずもない。

偏見と八つ当たり満載で述べさせていただくなら、インテリがインテリに向けて書く文章なんてつまらないに決まっているのだ。

青空文庫で何度もチャレンジしたが、どうしても読み進められなかった。

最終手段だと思い、名作のあらすじだけを集めた本やサイト等の知識でお茶を濁したりもしているが、それがいつまで通用するかもわからない。

昔の文人のめちゃくちゃなエピソードなどは面白い。そんなめちゃくちゃで面白い人が書いた作品なのだからさぞ面白かろうと読んでみるのだが、ほとんど途中で挫折してしまう。

夏目漱石は読みやすいものが多かったが、森鷗外は途中で挫折したし、坪内逍遥なんてハナからダメ。同じ日本語のはずなのに、なぜこんなにダメなのだろう。

オーディオブック系も試しているが、あれを眠らずに聞き続けられる方法を私は知らない。

面白さがわからないわけではない。『こころ』は、超面白かったし、『高瀬舟』はなんだかよくわからないけれど感動した。面白い面白くないのはなしではなく、とにかくそれがわかるところまで到達できないのだ。

ちなみに私は新聞が嫌いだ。
社会人になってから一度も購読したことがない。

理由は、嘘ばかり書いているだとか、面白い記事がないとか、そんな理由ではない。たまに見ると面白い記事が有ったりもするが、だいたい毎日毎年同じような事しか書いていないように感じるし、新聞を読むと嫌な思い出がよみがえるからだ。


中学の3年間、毎朝学校の朝のホームルームの時間に新聞(朝日とか読売)の社説を音読させられるという地獄のような時間を過ごした。

社説とはその新聞社の意見を述べる記事だ。当然、社説を担当しているのは新聞社のお偉いさんたちなので、中学生にもわかるように書いてはいない。わざと難しい表現を競って使っているかのような分かりにくさだ。そしてかなりの頻度で、時にはダジャレ的に『うまいこといってやった』的な表現が出現する。うすら寒いことこのうえない。おかげで語彙は増えたが、日常生活で使うような表現はほとんどなかった。受験に出てくるような近代文学や小難しい評論文の問題などを読むときには多少役立ったかもしれないが、それ以上のものではなかった。

大人になれば、社説の文章がすんなり理解できるものなのだと思い我慢して読んではいたが、30年以上経っても何言ってるのかさっぱりわからない。

話がそれたが、私は社説を読むたびに

・こういう難しい文を書いてる人って当然近代文学を理解できているんだろうなぁ
・社説をふむふむと読んでるような人(おじさんとかおじいちゃん)も近代文学とか好きなんだろうなぁ
・これ読んでる人の何割が理解してるのかなぁ

といったようなことを思う。

私が今いる職場環境(同僚を除く)には、近代文学を一通りかじっているのが常識みたいな人達(インテリ団塊の世代や中年インテリ意識高い系)が多い。その人たちに限って言えば、新聞(一般紙)を購読していて、物事に対していちいち批評的で押しが強くメンドクサイ場合が多い。そういうこともあって、私に近代文学アレルギーが発症してしまったのだろう。

まあ、転職すれば近代文学からは逃げられるのだが、差し当たってその予定もない。

とにかく、この環境にいる限りは、知ったかぶりで読まずに逃げ切りたい。

読んでいないことがバレると、読んでいないことを非常識だと非難されたり、100%親切心からこれを読めだとか薦められそうで困る。

近代文学の面白さなんて一生理解できなくていい。

とにかく逃げ切る事だけを目標にこの仕事を続けていきたい。

万に一つもないと思うが、近代文学ブームとか絶対来ないでほしい。

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