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「正しさ」という呪縛とクリエーション。

「利休好み」という言葉がある。茶事に関する所作や、茶器、花に料理。実際に千利休が好んだとされる趣向だったり、いかにも利休が好みそうな風情というものだったりする。なんだか、とても興味深い。

ともすると、利休好みこそが正解のように思えてしまうかもしれない。けれども、弟子の古田織部も、その継承者である小堀遠州も、それぞれに自分なりの茶の湯を展開している。師匠の教えを踏襲すること拒んでいるかのようだ。美意識というのは、そういうものなのだろう。師匠の教えを引き継ぎつつも、自分なりのものを生み出していく。だからこそ、利休好みは利休の好みなのだ。つまり、言葉通りの意味でしか無い。

実際のところは知らないのだけれど、ぼくにはそんなふうに思える。

明治時代、東洋的なものから西洋的なものへと社会がシフトさせられるとき、茶の湯は「茶道」になったし、教育であり、マナー講座のような立ち位置になった。そうでもしなければ、茶の湯を守ることが出来なかった。ただ、その結果、茶の湯の作法には「正解」が埋め込まれることになる。正解以外のことに手を伸ばしづらい環境になった。

「正しい出汁の取り方」という表現が、ぼくは好きではない。ということは、このエッセイでも何度か書いているし、たべものラジオの中でも語っている。それは、「正しさ」を定義することで「不正解」を生み出すからだ。料理に「不正解」なんてものは無いのだ。と信じている。あるのは、美味しいか美味しくないか。美味しいのであれば、それが正しくないやり方であっても、全く問題ない。むしろ、そこにこそイノベーションが起きる可能性があると信じている。「正しい〇〇」という表現が好きではない理由は、実にここにある。

「正しい」と定義されてしまう方法論は、たしかに存在している。それは、間違いと分断するものじゃなくて、「こうすると美味しくなるよ」という提示なのだと思う。その通りにやれば、概ね失敗しない。それはそれで大切なこと。茶の湯の作法も、似たようなものじゃないかと思うのだ。このようにすると、美しいよ。一旦、それを習得したら良いんじゃないかな。という提示。茶の湯は未経験なので、ぼくの想像に過ぎないのだが、そんな気がしてならない。

守破離の考え方に似ている。守を正だと定義すると、その先にいけなくなる。一方で、守はその先に進むために必要なステップでもある。どちらも大切。というか、二項対立じゃないはず。成長の段階なのだ。

ぼくなんかは、料理と真剣に向き合うようになったのが遅かったから、同年代の料理人に比べたらずっと後発になる。だから、破も離も見えていなかった。守を知らずにアレンジして、何度となく失敗したものだから、ある時心に決めたのだ。もう、徹底的に守をやる。むしろ、それだけでいい。日本料理の歴史にある、あらゆる守をやりつくすだけで、きっと一生かかるだろうから。この意識は今でも変わらない。

10年近くもこのスタンスで料理と向き合った結果、いつのまにか次のステップに足を載せていたらしい。お客様との会話の中で、どうやらそうらしいということを知った。はずれようとか破ろうとか思わなくても、自然とそうなるのだろう。押さえつけて押さえつけて、それでも顔を出してくるのが個性というものだ。と思っている。

今日も読んでくれてありがとうございます。振り返ってみて、つくづく自分を縛らなくてよかったと思うよ。もし、守に対して厳密に守ろうという意識が強かったら、きっとクリエーションとは程遠い職人になっていただろうなあ。

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