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僕たちは神秘や合理性の外側にあるように思えるものをどう理解していくべきか

先日は、即位礼正殿の儀。ネット界隈は大盛り上がりでしたね。うまく言葉に表現できませんが、とにかく不思議な出来事で、僕もびっくりしました。

こういったいわゆる神話や、精霊信仰(アニミズム)などの神秘的な文化は日本以外でも世界中に存在しています。僕も以前タイに旅行に行った際にタイ特有のアニミズムに触れ、タイ人ならではの文脈での考えを知りました。

このようなそれぞれの歴史の中で培われてきた文化は決して見落としてはいけないと思いますし、当然グローバル進出のために自分たちとは異なる文化を理解することの重要性は当たり前に言われていることですよね。

ただ、その「異文化理解」ってそもそもどんな状態なのか?これが今日のテーマです。

これまで人類学はどのようなアプローチで捉えてきたのかを整理する際に、非常に参考になったのが以前にもご紹介したこの本です。

人類学は精霊や妖術をどのようなアプローチで捉えてきたか

一つが機能主義的アプローチです。
妖術や精霊は社会統合や、人々の不安や悩みを解消するために機能しているという理解の仕方です。文化はどのようにその社会で役に立っているのかという観点で理解しようとするのです。

つまり、このアプローチはあくまでその文化の「機能」に注目しており、その妖精自体が本当に存在するのかどうかという視点はありません。
これって僕たちにとっての近代における合理性に合わせた納得の仕方なんですよね。あくまで社会的な有用性としての部分のみを見て理解に努め、その存在自体は存在するわけないと決めつける考え方です。

それに対する形で、もっと妖術とか精霊そのものの存在に目を向けたのが、存在論的アプローチです。
この考え方は、自分たち近代人にとっては存在していないが、「彼らの住む世界には妖精が存在している」とする考え方です。彼らの世界にとって存在していることを認めるのです。

これは先ほどの機能的アプローチと違い、安易な理解に走らず、現実にいる他者に向き合おうとする印象を受けます。
ただ、このアプローチもそもそも私たちと彼らとは?、世界は本当に分けられるの?みたいな根本的な問いに立ち返ってしまいます。

基本的に多くの人たちがイメージする異文化理解ってこの考え方なのかなって思います。

でもこの、「(オレたちの世界には存在していないけど)彼らにとっては妖精は存在しているんだろうね」という考え方って異文化理解として十分なのでしょうか?

きっとみんな「奇跡」を信じているし、信じていない

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今回の即位礼正殿の儀で起こった出来事の数々。皆さんはどう感じましたか?僕は正直不思議な感覚でまだ答えを出せていません。本当に天叢雲剣のおかげで雨が降ったのか、なんであんなベストなタイミングで虹かかったの?とか色々疑問は出て、「ひょっとして?」「いやいやまさか」「でももしかして?」。まとまってないです。

とはいえ「ただの偶然」って片付けるのも簡単です。

でも、きっと世の中にある精霊信仰とかアニミズムのような「超自然的」なものってきっとみんな同じで。

妖術を信じている南スーダンのアザンデ社会の人々も、もしかしたら今の僕と同じことを考えてるんじゃないかなって思います。

つまり、そこで暮らす人々の行為や実践の中で、どうしてもうまく説明できない不思議なことが起きる。そのたびに、彼らも悩み戸惑い疑いながら、「ひょっとして…??」と思いながら、その神秘と関わっていく。「迷い、揺れながら」捉えているのです。

実際にフィールドにいる人々も日常の中で驚いたり戸惑いながら「かもしれない」と感じていく。
「そんなはずはない」「でも、そうかもしれない」この二重性の中で奇跡を捉えているはずです。

確かに、そういった近代の合理性とは合わない文化を、その社会で人々が特定の事象を納得づける説明原理として整理し、社会の中における妖術や精霊の役割や意図を理論的に理解することも重要です。またその神話やアニミズムの成立背景を冷静に捉えるのは必ず必要な部分です。そこには僕たちが見過ごしてはいけない歴史もあります。だからこそ僕は歴史や人類学を学び続けたいと思っています。

でも、それだけでは理解しきれないもの、その環境で日々を過ごすことで湧いてくる「ひょっとして…」という感情は説明し切れません。

だからこそ、必ずしも合理的ではなく理論化できない「かもしれない」という領域での人々の様々なアクションや感情の機微に向き合うことが大切だと思います。

「そんなはずはない」でも「そうかもしれない」いや「そうにちがいない」。様々な考えが混ざって、重なり合う過程を見つめ続ける。その二重性の機微を捉え続けることってきっと本当の「異文化理解」なのだと思います。

僕たちにとっても理屈では説明したくないような、少し不思議な出来事との繋がりがふとしたきっかけで立ち現れてくるかもしれない。まさに今回の即位礼正殿の儀での出来事は僕にとってそう考えさせてくれるきっかけになりました。


最後に、「文化人類学の思考法」の中で、チャクラバルティの論考を引用した「アイルランドの詩人であるウィリアム・イェイツの回想の伝聞」を載せて終わります。

田舎の村々で民話を採集していたイェイツは、ある老婦人から多くの妖精譚を聴き取る。やがて夕闇が迫り、老婦人の家を辞した彼は、庭の木戸のところでふと振り返り、こう尋ねる。「あなたは妖精を信じているのですか?」。

老婦人は頭をそらせて笑い、「いいえ、まさか!」と答える。

ややあって、小道をたどり始めたイェイツの背中に、老婦人の声が追いかけてくる。

「でも彼らはおりますよ、イェイツさん、おりますとも」

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