黄色い桜の葉(後編)


学内でも一二を誇る樹齢の桜の木の根元に、喫茶猫耳の入口はあった。二足歩行で人間の言葉をしゃべる猫はするりと入口のドアを抜け中に入っていく。
ゆうかは慌てて後を追うが、大きな楽器を背負ったままでは抜けられそうにない。楽器をドアの横に置き、ちいさな入口に身を屈めるようにしてなんとか体を押しこんだ。

「いらっしゃいませ。喫茶猫耳へようこそ。」
二足歩行の猫は優雅に言う。
「狭い店内ですがごゆっくりお過ごしくださいね。」
小さな入口にふさわしい、小さな店内には暖炉とカウンター、ソファー席が一つあるだけだ。ゆうかはおずおずと、ソファー席に腰掛ける。
「人間のお客さまは、実に何年振りでしょう。」
猫はニコニコと続ける。
「当店はお客様の気分をお聞きして、その気分にぴったりなお茶とお菓子をご用意させていただきます。お客様の今の気分は?」
「…えっ、えっと…。」
ゆうかは口ごもる。そういえば、最近の自分は天気も相まって、ずっと憂鬱な気分だった。
「そうだな…。憂鬱な気分を晴らしたいです。」
小さな声で、ゆうかは言葉を振り絞る。
「かしこまりました!憂鬱な気分を晴らすティータイムをご用意いたします!」
猫はパッと顔を輝かせて復唱すると、カウンター内に下がっていった。

それにしても、自分は夢を見ているのだろうか。
二足歩行でしゃべる猫なんて、ジブリの猫の恩返しのバロンのようではないか。けれど、オレンジ色の灯りに包まれる店内で紅茶の缶を開ける音や、お湯を注ぐ音を聞いていると、なんとも心が落ち着いてくる。
さっきまでの疲れがゆっくりと溶けていくようだ。
ふとカウンターを見上げると、猫がポットにお湯を注いでいた。
「…そういえば、猫さんのことは、なんとお呼びすれば?」
ゆうかが尋ねる。
「そうでした。申し遅れました、私喫茶猫耳のオーナー、フレデリック・ケイヒルと申します。お客様方はマスターやフレッドなんて呼んでくださいます。」

「ケイヒルさん…。」

「苗字で呼ばれ慣れておりませんので、ぜひフレッドと、お呼びください。」

「では、…フレデリックさん。」

「はい、お嬢さん。お嬢さんのことはなんとお呼びすればいいでしょう?」

「ゆうか、です。」

「ゆうかさん!素敵なお名前です。もう少しで茶葉が開きますのでしばらくお待ちくださいね。」
ゆうかは急に恥ずかしくなってソファに体を埋めた。
ゆうかさん、なんていつ振りに言われただろう。友人も両親も一様に呼び捨てだし、さん付けで、しかも男性から。いや、猫だけど。
不思議である。この空間も、フレデリックも。警戒しようとする気持ちにまるでならない。頭で考えるよりも先に体がくつろいでしまう。
そんなことをぼんやりと考えていると、ティーセットが運ばれてきた。
「お待たせしました。アッサムティーと、レモンパイでございます。レモンの風味をお楽しみいただきたいので、紅茶はぜひ、何も加えずそのままでお召し上がりください。」
フレデリックは白と青のウェッジウッド調の繊細な花模様のティーカップに優しく紅茶を注ぐ。アッサムの爽やかな香りが広がる。
「いい香り…。」
思わず言葉が出る。
「どうぞ、ごゆっくりお楽しみください。」
アッサムの香りを体いっぱいに吸い込み、一口紅茶に口をつける。
爽やかで、上品な花の香り。少し薄めの茶葉の色を楽しむ。レモンパイを一口ほお張ると、レモンの酸味と軽めのバタークリームの甘さが口いっぱいに広がる。
「おいしい。」
心も体もほぐれていくような味わいに、ゆうかは微笑みを浮かべる。
初めての体験であった。
ゆっくりとゆっくりと、紅茶とパイを楽しむ。周りの喧騒やしがらみを忘れ、自分自身が満たされていく。

「はぁ、美味しかったです。ご馳走様でした。」
ゆうかはゆっくりと告げる。
フレデリックは優しく微笑みながらいった。
「桜の葉が季節はずれに黄色くなって多少の落葉があっても、翌年の開花には影響がないそうなんです。けれど、猛暑や長雨など、ストレスがかかる環境ではどうしても体調を崩しやすくなる。その苦しみを葉っぱを黄色くさせて体外へ排出させることによって、元気な自分を取り戻しているのかもしれません。
私たち、動物や人間も同じです。病気や怪我ではないけど、心が不健康になって黄色い葉っぱになってしまう時は、こうしてゆっくりとリラックスできて、安心感で満たさせると、また元気に花を咲かせることができるのです。」

「ゆうかさんは、きっともう大丈夫です。けれど、また心がどうしても上を向いてくれなくなったら、喫茶猫耳にお越しくださいね。」

フレデリックの言葉が終わるか終わらないかのうちに、優香の体は瞬く間に竜巻のような突風に襲われた。
やっと風が止んだ時、あの暖かなオレンジ色の空間はどこにもなく、ゆうかは大きな桜の木の根元にいた。
あれは、夢か幻だったのだろうか。ふとゆうかは口元を撫でる。口元にはレモンパイのクリームが少し甘さを残していた。
いや、フレデリックは私を慰めてくれたのだ。喫茶猫耳は私を温めてくれたのだ。
ゆうかは、胸の奥の温かいものを感じ、楽器を背負い直す。心なしか、軽く感じる。
夕方の街は夕焼けに染まっていた。東の空には一番星が輝いてる。
涼しい風がふいてきた。秋はもうすぐだ。

                                Fin.


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