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人の気持ちはわからないけど

人の気持ちはわからない。

いくら技術が進歩しても他人の思考が脳に直接届くなどということはなく、その人の仕草や表情、声色、時には書かれたテキストや絵から「たぶんこんなことを考えているんだろう」と推測する。いわゆるコミュニケーション能力が高い人というのは、その推測する力に長けた人のことだ。

「哲学的ゾンビ」という一種の思考実験がある。外見的な振る舞いは普通の人間そのものでありながら、実は意識や感情をもっていない人間が存在すると仮定し「哲学的ゾンビ」と称する。

哲学的ゾンビは、物理的な観点から普通の人間と区別をつけることはできない。人間と哲学的ゾンビを分けるのは、非物理的存在である「意識(クオリア)」の有無だ。ここから、物理的な観点から全てを説明しようとする物理万能主義は間違いであるという批判や、いやそもそも意識なんてものが存在しないでしょうという反批判など、さまざまな議論が呼び起こされる。

ここでは面倒な議論は横に置くとして、哲学的ゾンビの思考実験は、コミュニケーションというものに対するわたしたちの認識の浅薄さを突きつけてくるようである。
一見して卒なく意思伝達ができているような気になっても、それは意思伝達ができたような気になっているだけかもしれない。互いの気持ちを理解して心を通じた気持ちになっているだけで、相手は全く正反対の感情を自分に向けているかもしれない。
そして、そんなことはわたしたちの生活では日常茶飯事なのではないだろうか。

他人の気持ちは、結局のところ暗闇なのである。これは真理であると、わたしは強く思う。

しかしその真理と同じくらい重要なことは、それでもなおわたしたちに「相手に気持ちが通じた」としか思えない瞬間が訪れるということではないだろうか。

相手に対する好意を言葉で伝えて「わたしも好きだった」という言葉が返ってきたとき。なんの取り決めもしていないのに行動を共にしてくれる友人の存在に気付いたとき。幼い子供をあやして笑顔が返ってきたとき。

日常の大半が無理解や無関心や相互不干渉に埋め尽くされてしまったとしても、心が通じ合ったと思える僅かばかりの瞬間さえあれば、その思い出だけで、短い人生を生きて行くのにはじゅうぶんなよろこびであるように思う。


(カバー画像:表記の通り)

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