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孤独に"何者"を目指すか、世俗的に幸せを受容れるか
社会人3年目、25歳が近づいてきた。
自分の本当にやりたいことってこんなことなんだろうか、このまま年齢重ねていくのだろうか、みたいな悩みが、忙殺された日々に浮かぶ夜にやってくる。
月並みだけど、反抗期みたいなもので、多分転職の増える社会人3年目くらいの人にはだいたいみんなに訪れるんだろう。
モラトリアムの長期化だったり、キャリアの早期構築願望だったり、最近の若者にみられる言葉を聞くたびに、やはりZ世代は特に「何者かになりたい世代」なんだなあと思ったりする。(もちろん自分もその一人、、)
"何者"を目指すというのは孤独だし、すごく苦しいものだ。
でも一方で、仕事はお金をもらうために我慢するものと割り切って、休日に友達とランチをしたり、推しのライブに参戦したりして、また平日の仕事を頑張る。みたいな人もたくさんいるし、当然それは悪ではなく、単純に幸せそうに感じる。
孤独に"何者"を目指す人と、世俗的に幸せを受け入れる人。
何が違うんだろう。
『左利きのエレン』という漫画で、「何かにならなきゃ・・・退屈で生きていけねえよ・・・」と主人公が泣きながら漏らすセリフがあるけど、多分、"何者"を目指す人はその先にあるカタルシスを求めていて、つまりは世俗的な人生では潤えない人種なんだと思う。
一生消費者でいたくないし、一生観客席側でいたくない。
自己啓発本とNETFLIXに満足して、生きていたくない。
高校や大学時代では部活に励みふざけ合う友人がいて、受験を頑張って、大学のサークルで恋人をつくって、新卒で就職して、最初はきついけど徐々にやりがいを見出して、後輩とかもできて、大学の恋人と結婚して、仕事の責任も増えてきて、子供ができて、妻と子供のために懸命に働いて、いつか見たあの夢のことはすっかり忘れていて。
みたいな人生が、ベターだけどベストじゃない。
というのが、"何者"を目指す人がなんとなく感じていることなんじゃないか。
でも、こんなに雑音が多くて潤いずらい時代に、世俗的な幸せを受け容れて潤える人はすごく素敵だと思う。
同時に、それじゃ潤えない人が、"何者"を目指した結果、結局カタルシスを手にできずに死んでしまっても、それはそれで別に人生の失敗じゃないとも思う。
すべてに満足してにっこり死んでいける人なんて奇跡に近いし、次の瞬間に手を伸ばしながら死んでいくのって別に普通だ。
むしろ生きている間、そうやって死んでいった先人たちの伸ばした手を背中に意識しながら今を最前線で生きることが、死ぬときのそこはかとない満足感になると信じてる。
つまり、どちらかの生き方が正解で、健康的な人生のために自らに課すというのは違う気がするし、そいうものは、そこに折り合いがつけられないほど原始的で野生的なものだと思う。
"何者"への憧憬を否定して世俗的な幸せに甘んじる必要も、なんでもなくて尊い幸せを否定して強迫的に"何者"になる必要もなくて、自分の尺度で潤えるところまでズームして、ピントを合わせて。
そうしてまた、同じように次の瞬間に手を伸ばして死んでいく。
人生って多分、そんなもん。
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