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書評・感想『御成敗式目』佐藤雄基著

総合評価

個人的な評価:★★★★★(星5つ)

この本は力作と言える本で、昨年読んだ本の中でも上位に位置付けられる本であった。

私がこの本を読む前に疑問に思っていたのは、以下の3点である。

  1. 鎌倉幕府はどういう性質を持った政治組織だったのか。

  2. 御成敗式目とは、どのような特徴を持った「法律」なのか

  3. 鎌倉幕府と御成敗式目は、現代のわれわれにとってどのような意味を持つのか

以下、上記3点に関する私の感想と意見を述べていきたい。

1.鎌倉幕府はどういう性質を持った政治組織だったのか。

鎌倉幕府については、通説として以下の2つが存在している。
(1)      権門体制論
鎌倉幕府は中世の支配層の一部でしかなく、荘園体制の下で民衆支配を行っていた公家、大寺社などと並んで軍事と治安維持を行う一つの「権門」であったと考える。
(2)      東国国家論
鎌倉幕府は、関東に独自の基盤を持っており、京都の朝廷からは半独立的な存在であった、とするもの
この2つのどちらが有力なのか、ということについては、現在でも活発に論争が行われているようである。
これに対して、筆者は以下のように語る。

いずれの立場を取るとしても、鎌倉幕府が日本全国を支配する権力体では無かった、という認識では一致している。
しかし、「権門体制論」は、鎌倉幕府を前の時代から続く朝廷・京都中心の秩序で考えようとしている一方、「東国国家論」は、鎌倉幕府を鎌倉に生まれた新しい政治権力の成長を中心に考えようとするものであり、どちらを主体として考えるのかによって、おのずと見方は変わってくる。

『御成敗式目』佐藤雄基著(以下、「本書」)

私としては、筆者からの上記の投げかけを十分に考慮しながら、テーマである「鎌倉幕府とはいかなる存在なのか」ということについて、考える大変よい機会になった。

さて、本書を読んだ結果として、「鎌倉幕府はどういう性質を持った政治組織だったのか」ということに関する私の感想および意見は以下の通りである。

(1)鎌倉時代における、日本全国の統治状況

本書でも説明されている通り、この時代はいわゆる「中世」であった。
日本国内の人口もせいぜい6~7百万人程度であったとされる。
この時代、京都には10数万人の人口はあったが、地方には一国単位でも10万~20万人というレベルの人口しかなく、京都に対抗する地方勢力が出来上がるのは困難だった。
そのため、地方の豪族たちは、京都と結びついて地方社会に君臨するようになり、中央の有力者は律令国家にように全国をくまなく支配するのではなく、地方の有力者と個別に結びついて地方の富を確保する、という形をとっていた。
つまり、この時代の政権には、全国の津々浦々までを支配をする、ということ自体が難しかったと考えるべきだ、ということになる。
平安時代以降、鎌倉時代→室町時代→織豊政権→江戸時代と推移していく中で、武士が長い時間を掛けて全国支配を固めていく過程の、最初の段階が鎌倉幕府である、ということになるだろう。

(2)内乱の時代・中世の始まりと地域別の区分

上記「1」の状況の中で、1156年に起きた保元の乱および1159年の平治の乱以後は、日本は事実上「内乱の時代」となった、という認識が示されている。
本書は以下のように説く。

『泰平の世』と言われる江戸時代(近世)まで4百年以上にわたって、日本社会は断続的な内乱を経験する。いわば「内乱の時代」としての中世の始まりである。

本書

つまり、源頼朝はこの内乱を勝ち抜いて鎌倉幕府を成立させたが、その政権基盤は『泰平の世』を確立できるまでの確固たるものではなかった、ということになる。
そうだとすると、内乱の世の中から、一定以上の力を持つ武士集団=軍事勢力として鎌倉に拠点を置いたのが鎌倉幕府である、と言えるだろう。

そうした状況になった一つの要因として、自らが直接統制する範囲を、頼朝が「地域」・「権限」の両方で限定した、ということがある。
その中で、「地域」に関して言えば、1186年に尾張(愛知県西部)・越中(富山県)以西の37か国について、御家人を、各国の守護を介して統制する形とすることと定めた。これは、その後に六波羅探題によって管轄することになる領域とほぼ一致している。

本書ではこれ以上のコメントはしていないが、鎌倉幕府が東国と西国とで異なる支配をすることになったとすれば、それが鎌倉幕府の本質が「東国国家」である、という主張の主たる根拠の一つとなったのだろうと考えられる。

いずれにしても、「内乱の時代・中世の始まり」という当時の経済・社会情勢から、鎌倉幕府は権限と地域の両方で、自らが直接統制する範囲を定める、という頼朝の判断は、当時としてはかなり画期的で優れたものであったと考えられる。

(3)鎌倉幕府の統治方法

源頼朝は、「権限」においても直接統治する範囲を限定する方法を選んだ。
武士を自分の支配下にある「御家人」と、幕府ではなく荘園領主などの支配下にかる「非御家人」とに分け、どちらになるのかは武士たちの選択に任せた。
それはすなわち、御家人の範囲を明確にしながら、京都・朝廷には一定の距離を置き、朝廷と御家人の仲介者というポジションを確定させた、という方法を選んだ、ということになる。
このようにして、自ら統治する範囲を限定したことにより、東国においては、事実上の支配権力として機能した一方で、日本全体で見れば、朝廷や寺社と権力・権限を分離・分割して行使する、という方法を選択したことになる。
それはまさしく、軍事と治安維持の機関という「権門」としての鎌倉幕府の姿を描いたものであると言えよう。

私の問題意識

以上のような考察を踏まえた私の問題意識は以下の通りである。

まず、「権門体制」か、それとも「東国国家」か、という問題に関しては、私は「両方の性格をそれぞれ持っていた」と考える。

まず、鎌倉幕府がなぜ朝廷を滅ぼし、自分たちが権力を握る、ということをしなかったのか、という点に関して、本書では以下のように説明されている。

一つの要因は、当時の社会の統合の仕組みである。日本列島では、大きな地域的なまとまりが成長しにくく、京都から独立するような地方権力が生まれない構造になっていた。
政治権力も同じように分散的で、幕府もまた複数ある権門の一つに過ぎず、武士全体を統合しているわけではない。
こうした権門や武士たちが依拠していた荘園制というシステムは、朝廷・天皇を前提にして作られ、京都の支配者集団と全国各地の荘園を個別的・直接的に結び、列島全体を緩やかに統合していた。
それ自体は強固ではないが、蜘蛛の糸のように粘り強く張り巡らされた統合の仕組みを一層して、新たな社会統合の仕組みを作ることは難しかった。

本書

つまり、当時の社会経済の状況が、源頼朝に対して、朝廷を滅ぼして全国支配を行う、という選択肢を持たせなかったのである。
源頼朝は、京都と一定の距離を保ちつつ、一つの権門として権力を行使する道を選んだ。その意味では、鎌倉幕府は「権門体制」と言うことができるのであろう。

しかしその一方で、自らの権力基盤に地理的に近く、京都の朝廷からは逆に離れていた東国においては、事実上の独立国家として機能していた。その意味では「東国国家」と言える状況もあったと考える。そうでなければ、鎌倉時代から、建武の新政を経て、室町時代への移行は、単なる権門の交代でしかなくなってしまうだろう。

いずれにしても、単なる「権門」であり、「東国国家」でしかなかった武士の政権が、室町期を経て江戸期に全国政権を確立する過程を、本書を通じて改めて考え直すことができたのは、大変貴重な体験だった。

2. 御成敗式目とは、どのような特徴を持った「法律」なのか

御成敗式目制定時の日本国内の状況

最初に注目したいのは、この式目が制定された当時の日本国内の状況である。
本式目が北条泰時によって制定された鎌倉時代は、既述の通り、日本は中世であって、全国の総人口も1千万人に届かず、地方の豪族たちが、それぞれ京都と結びついて各地域に君臨していた時代であった。
そうした時代にあっても、地方の豪族間での争いは絶えなかったため、彼らは自力で解決できない場合には、中央政府などの有力者に解決を委ねようとする傾向にあった。
つまり、統治機構としての中央政府に求めていたのは、「行政権」よりも、争いごとの仲裁という形での「司法権」だったのである。
いや、各豪族が支配していた地域を、一つの国として考えるのであれば、国同士の争いを裁くための「国際司法権」のようなもの、と考えることができるかもしれない。

いずれにしても、「司法権」、あるいは「国際司法権(のようなもの)」を行使するためには、その前提となる「立法」が必要である。あるいは、「国際司法権のようなもの」と考えれば、「国際法のようなもの」が必要となるだろう。
そうしたニーズを背景として成立したのが御成敗式目だったのである。

御成敗式目について、重要だと感じた事柄を箇条書き形式で列挙してみる。

1.   御成敗式目は、その効果が及ぶ範囲を限定している


御成敗式目は、既述の通り、自分の支配下にある御家人、さらには地頭を対象として成立したものである。
これは、鎌倉幕府が京都の朝廷と適切に距離を取りながら、自らが権力を行使していく、という源頼朝が確立したシステムの継承を目指したものであった。
しかし、結果として、御成敗式目は幕府が統治対象としたものを超えて、国家秩序の法として鎌倉期の社会の中で広く受容されていくことになるのである。

2.御成敗式目は当初は基本法として成立したわけではなかった


御成敗式目について、当時の基本法として、一般原則を定めるために制定された、と評価されることがある。先ほどの、「国際法のようなもの」と考えれば、現在の「国連憲章」のような位置づけのもの、という評価である。
しかし、本書によれば、式目は一般原則を定めたものではなく、制定当時に具体的に問題となっていた案件について、対応策を示したものに過ぎない、ということである。
つまり、鎌倉時代の法律は、式目を頂点として、様々な追加法が定められていった、というものではない、ということである。
むしろ、式目に書かれていない事態が発生すると、その都度状況に応じて判断され、追加法になっていった、ということが正しい。

3.御成敗式目は「有名な法」という位置づけが正しい


ある案件や司法的判断が求められる事例等においては、その判断の根拠となる「前例」や「先例」がどうしても必要となる。
役人たちは、自分の家に伝わった父祖の日記を参照しながら、判断の参考になる先例を見つけて、判断を行っていたという。
御成敗式目は、数ある頼朝の洗礼の中から、特定の先例を明文化して周知させた、という点に特徴がある。
そして、鎌倉時代においては「誰もがその内容を知っている最も『有名な法』」という存在になった。
つまり、誰もが参照の対象とする法律となったわけで、その結果として、事実上の「基本法」となっていったのである。

[まとめ…御成敗式目の持つ特徴とは]


御成敗式目のあり方や特徴を考えることは、鎌倉幕府という存在を考えるうえでは、大変重要である。
御成敗式目が制定される前、源頼朝は、京都にあった朝廷との距離感を保ち、自らの権限の及ぶ範囲を制限しながら、同時に権限の及ばない範囲に対しても働きかけを行っていく、という統治方法を採用した。
御成敗式目は、こうした統治方法・統治思想を踏襲しつつ、当時ニーズが高まっていた「国際法のようなもの」として制定されたもの、と考えられる。
この「国際法のようなもの」が対象としたものは、初めは鎌倉幕府の統治下にあった御家人と地頭だけだったが、やがて「最も有名な法」としての存在感が増して、統治対象以外からも参照されるようになっていく。
これは、当初はバラバラであった各勢力たちを、一つに取りまとめることに大きく貢献したとされ、1268年に元の使節が来日し、その後起こった元寇の際にも、朝廷・幕府・寺社の連携のもとで、これを乗り切ることに貢献したと、本書では評価している。
つまり、御成敗式目は、成立当時は一つの権門、あるいは東国における一つの国家に過ぎなかった武士たちが、江戸幕府に向けて国家権力を握っていく過程において、大変重要な役割を果たしたのだと言えるだろう。

3. 鎌倉幕府と御成敗式目は、現代のわれわれにとってどのような意味を持つのか

繰り返し書いていることだが、源頼朝は、自ら全国を支配する、と言う方法を採らず、京都と一定の距離を保ちつつ、一つの権門として権力を行使していく道を選んだ。
それは同時に、朝廷と御家人の仲介者という自らのポジションを確定させた、ということでもある。

ちなみに、鎌倉幕府の成立過程において、最近は1192年に源頼朝が征夷大将軍に就任した時ではなく、地頭「勅許」のあった1185年や、「朝廷のもとで全国を守護する鎌倉幕府」という規定のなされる1190年が重視されている。
しかし、既述の1186年も、自らの権限を限定的に規定し、その後の幕府の統治方針を明確化された年として、非常に重要である、というのが本書の指摘である。

源頼朝は、自ら規定した自らの権限の及ぶ範囲を超えて、他の統治主体に対して働きかけを行うようにした。つまり、単なる一つの権門という立場を取りながらも、朝廷や寺社などの他の権門に対しても、影響を行使した。
御成敗式目は、頼朝の行ったこのような統治術を継承しながら、それを強化するものとして位置づけられる。

私が特に注目したいのは、源頼朝が作り上げ、御成敗式目の制定を経て完成させた統治システムが、後世に与えた影響である。

鎌倉幕府は、彼ら独自の統治システムとして、以下を採用した。
①     直接的に全国を支配するという選択肢を捨て、権限・地域の2つの点で、自らの権限を行使する範囲を限定した。
②     天皇を中心とする朝廷をそのまま残すとともに、源頼朝が征夷大将軍となり、「鎌倉殿」となった。その後源氏の血統が途絶えた後は、朝廷関係者から将軍を迎え入れて、「鎌倉殿」とした。
③     御成敗式目を制定して、自らの統治対象とした御家人、地頭に対して適用した。

これが、鎌倉幕府が確立した統治システムであり、同幕府の「ビジネス・モデル」あるいは「ポリティカル・モデル」とでも言うべきものである。
既述の通り、この統治システムは、「内乱の時代・中世の始まり」という時代背景から導き出されたものだが、これが江戸時代まで程度の差はあれ、受け継がれていくことになった、という点が非常に重要であると考えられる。

江戸時代でも、朝廷は「禁裏」と呼ばれ、一つの権門として存在しつづけた。(①)
室町幕府、江戸幕府とも、武士の棟梁が征夷大将軍として君臨する、という形式が踏襲されていった。(②)
室町時代、江戸時代を通じて、建武式目や武家諸法度などの新たな“法律”が制定されたが、御成敗式目は、江戸時代末期まで“有効な法律”であるとみなされてきた。(③)
このように、鎌倉幕府が採用した「ビジネス・モデル」あるいは「ポリティカル・モデル」としての統治システムは、その後江戸時代の末期まで、7百年以上に渡って受け継がれていくことになったのである。これは驚くべきことである。

さらに一歩踏み込んだ見方をしてみたい。
武士とは、中世から近世にかけて存在した「軍人」であり、幕府は「軍事政権」であると考えることができる。つまり、鎌倉幕府は歴史上はじめて成立した「軍事政権」なのである。
ただし、今まで何度も繰り返し論じてきたように、鎌倉時代には「軍事政権」は権限的にも地域的にも日本全国を掌握していたわけではなかった。
江戸時代になってはじめて、事実上全国をほぼ完全に掌握する軍事政権ができあがった、ということになる。
しかし、江戸時代においても、軍事政権は天皇を中心とした「朝廷」に関する権限については、事実上“アンタッチャブル”なものとして残されていた。
そして朝廷は、明治維新の時に「王政復古」ということで、再び政治の前面に押し出されてくる。
しかし、形式的には王政復古となったものの、その政治を支えていたのは、薩摩、長州、土佐、肥前などの士族の出身者であった。
つまり、明治期に入っても天皇を中心とした朝廷のシステムを残して、軍人が国を支配する、というシステムは継続されたのである。

これは、既述の3つのシステムのうち、①と②が形を変えて残った、ということを意味する。さすがに御成敗式目については事実上「無効」になったものの、「天皇を中心として、軍人が統治する政治システム」という観点から見れば、明治期以降も継続した、ということを意味する。
鎌倉幕府が採用した「ビジネス・モデル」あるいは「ポリティカル・モデル」としての統治システムは、江戸時代末期までではなく、少なくとも第二次大戦の終了時まで、受け継がれてきたと考えられるのである。

さらにさらに踏み込んで言えば、天皇制は現在も「象徴天皇制」という形で継続している。これは、さらに形を変えつつ、「天皇を中心とした朝廷」を残した、と見ることができるであろう。
つまり、鎌倉時代の統治システムを、我々は現在に至るまで、すべてではないが、継承し続けていることになるのである。

現在は、民主的な政治システムが政治をコントロールしている。
戦後になって、軍人は自衛隊という形で一歩引いた存在となった。
しかし、現在またその力の拡大が進もうとしている。
それが何を意味するのか、という点については、歴史を振り返りつつ、注視していく必要があると考える。


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