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書評・感想『恋愛の哲学』  戸谷洋志著感想と個人的な評価

個人的な評価:★★★★★(星5.0)

本書は、「恋愛の哲学」つまり、「恋愛とは何か」について論じた本である。

私のような、恋愛を卒業したとも言える中高年が読む本ではないかな、と思って手にしたのだが、良い方向に期待を裏切られた。たいへん興味深い内容の本であった。

私は、個人的に恋愛経験が豊富、というわけではない。しかしそれでも“一通り”の経験はしてきた、と思っている。
そんな私が、恋愛というものに対して、“何となく”というか、“漠然と”感じてきたことについて、本書はプラトンからレヴィナスまで、7人の著名な哲学者の思考や主張を通じて、理解を深める大きなヒントを与えてくれた。

この本は、若い方から私のような中高年まで、幅広く読むことをお勧めできる本だと感じている。

総合的な評価としては、十分に「5.0」を付けられるだろう。


Ⅰ.総論

1.最初に

私は、この本の最初の章を読んで、「この本について最後まで読んだら、その内容をできるだけコンパクトに要約する試みをしてみたい」と思った。
しかし、読み進めていくうちに、それがとても難しい作業である、ということに気が付いた。

本書は、既述の通り、プラトンからレヴィナスまで、7人の著名な哲学者の思考や主張を通じて、「恋愛とは何か」というテーマについて、哲学的に論じた本である。
それぞれの哲学者の恋愛に関する主張が、可能な限りコンパクトにまとめられて、1冊の本を構成している。
そうした内容の本を、哲学に関しては素人の私が、さらに短く要約してまとめる、ということは、もちろん簡単にできることではないし、実際に難しいことだ。

実際にトライしてみたが、各章をそれぞれ要約する作業はやはり手におえるものではない。
そこで、私が気になった省だけご紹介することにしたい。

2.恋愛とは何か…私の恋愛に関する疑問について

著者は、恋愛について、本書の冒頭で以下のように述べている。

私たちが「なんとなく」分かった気になっている程度のものであるにもかかわらず、人生を大きく左右するもの、それが恋愛だ。(中略)
私たちは、恋愛が何であるかを学校で習わない。文部科学省は恋愛を定義していない。だからこそ、恋愛の定義はあいまいであり、多義的でありうる。

本書より

少しでも恋をした経験がある人、あるいは少なくとも他人(ひと)に対して好意をもったことがあれば、「恋愛とはこういうものだ」という自分なりの意見とか、解釈のようなものを持っているのではないだろうか。

そして例えば、「恋は盲目である」とか、「(恋をしていれば)あばたもえくぼ」などと言う言葉を聞けば、「確かに相手を好きになってしまうと、周りが見えなくなることもあるよなぁ」などと共感もできるだろう。

さらに、例えば「ロミオとジュリエット」とか、「タイタニック」のような“悲恋”について、話を聞いたり映画を見たりすれば、著者が言うように「恋愛は人生を大きく左右する」という言葉にも納得するだろう。

しかしよく考えてみれば、なぜ恋愛は人を盲目にしたり、人生を左右したりするのか、ということについて、その理由を深く考えることは無いのではないだろうか。

さらに、なぜ、ある人のことを愛しているのだが、なぜその人のことを愛しているのか、自分ではよくわからないことがあるのか。
あるいは、なぜ恋愛は自分が相手を好きなだけではだめで、相手が自分を好きになってくれないと満足できないのか。
こうしたことは、「当たり前のこと」としか思わず、疑問に思ったことは無かった。

本書は、こうした「恋愛の謎」について、理解するためのヒントを与えてくれる本となっている。

3.著者によるメッセージ…なぜ恋愛の哲学が必要なのか

著者は、本書の最後の部分について、「本書(=恋愛の哲学)に対して寄せられる反論を想像してみる」という形で、次のように述べている

まっさきに思いつくのは、恋愛は頭で考えて分かるものではない、ということだ。
たしかに、それはそうかもしれない。恋愛とは、それについて思考する対象ではなく、実践されるものだからだ。恋愛についてどれだけ考えても、実際に恋愛した方が、恋愛のことを深く理解できるだろう。そうした考え方も十分に成り立つだろう。

本書より

著者が、自著に対する反論を想像してそれを自著の中に書く、ということ自体が興味深いと感じた。
しかし、あくまで著者の”想定”であるとしても、上記については、一通り恋愛を経験した者としては「本書に対する妥当ではない反論」だと感じている。なぜかと言えば、すでに書いたように、恋愛については経験しただけではよくわからないこと、不思議に思うことがたくさんある。だからこそ、恋愛の哲学が必要なのだと思う。

私の意見はともかくとして、著者自身は自身が想像した反論に対して、どのように反駁しているのかが大事である。
筆者は次のように指摘している。

しかし、筆者は、そのように恋愛について思考することが、恋愛に必要なこともある、と考えている。それは、「私」が実践しているのが、本当に恋愛なのかを、問い直さなければならないときがあるからだ。
なぜ、問い直すことが必要なのか。それは、私たちが、本当は恋愛ではないものを、恋愛だと思い込むことがありえるからだ。

本書より

著者は、上記の例として、「ただの暴力でしかないものを愛だと勘違いするかもしれない」
「本当は相手を愛していないのに、周りに流されて、恋愛の模倣をしているかもしれない」
ということを挙げている。

恋愛に関しては、いわゆる「モラハラ」や「ドメスティック・バイオレンス」であったり、「デート・レイプ」であったりするような“事件”がしばしば報道されている。それらがまさしく著者の指摘することに含まれるだろう。

私たちは、恋愛について学ぶことはなくても、恋愛を実践しているわけだが、それが正しい恋愛なのかどうか、私たち自身が理解していないのではないだろうか。それが、著者がまさしく指摘することである。

そうした点からも、恋愛について先達の考えや思考から学び、考える機会を得る、という点からも、本書は重要であると感じた次第である。

Ⅱ.各論

以下では、7人の哲学者の恋愛に関する議論のうち、特に私の印象に残ったものをいくつかピックアップして説明をさせていただく。

1.なぜ誰かを愛するのか…プラトン

最初に、著者が紹介しているのは、恋愛に関して最も本質的な問いの1つである。それは、「なぜ、誰かを愛している理由が説明できないのであろうか」ということである。

私たちは、相手を愛しているにもかかわらず、多くの場合、なぜ相手を愛しているのかを説明できないのである。しかし、これは考えてみれば不思議なことだ。私たちは、恋愛以外であれば、好きなものについて、なぜそれが好きであるかを説明できる。しかし、恋愛ではそれができなくなってしまうからである。

本書より

少し補足をする。
例えば、「あの人はとても優しいから愛している」と言ったとする。しかし、優しい人はいくらでもいるわけだから、それは本当の理由ではない、ということになる。なぜならば、もっと優しい人はいくらでもいる訳で、そういう人がいれば、その人に乗り換えうる、ということになってしまう。

著者は次のように指摘する

愛している理由を説明できないからといって、相手を愛していないということにはならない。むしろ――反対に――理由を説明できないからこそ、相手を愛していると言えるのだ、と。

本書より

実は、プラトンの時代・古代ギリシャでは恋愛は主として男性による同性愛を指していた。
さらに、当時の恋愛では、能動的に相手を「愛する者」と、受動的に相手から「愛される者」とが分かれていたという。
そして、能動的に相手を愛する者は年長の男性であり、受動的に相手から愛される者は少年だった。
つまり、恋愛において、相手を愛しているのは年長者だけであり、年長者は自分の快楽(具体的には性欲)を満たすための手段として、いわば快楽の対象として少年を取り扱った。

著者は、このように、恋愛に関して「他者を快楽の対象とする恋愛」を、「快楽に基づく愛」と呼ぶ。
そしてプラトンは、快楽に基づく愛の暴力性について、「人間がある対象に快楽を感じるのは、その対象が自分よりも弱いときである。」と指摘している。

著者は言う。

私たちには、自分が相手を愛している理由がうまく説明できないこともある。これは、快楽に基づく愛には、決して起こりえないことだ。なぜなら、快楽に基づく愛は、必ず快楽を目指しているからである。(中略)
こうした愛は、快楽に基づくものとしてではなく、別の種類の愛として説明されなければならない。そう考えざるをえない。

本書より

自分にも周囲にも分からない理由によって行為することは、一般に「狂気」と呼ばれる。従って、説明不可能な理由に基づく愛は、「狂気に基づく愛」ということになる。
そして実は、プラトンはこの狂気に対して積極的な価値を見出している、という。なぜかと言えば、狂気は創造性の源だからである。

なぜ、狂気が創造性の源なのかと言えば、狂気は、それが周囲から理解されないものであり、周囲の理解を超えたものであるからこそ、人々の常識を打ち破り、誰もできなかったことを想像し、常識に揺さぶりをかけることができる。
よく、「芸術家の狂気」ということが言われるが、それはまさしくそうしたこと(=人々の常識を打ち破り、誰もできなかったことを想像し、常識に揺さぶりをかけること)に価値がある、ということなのである。

プラトンはそうした「狂気に基づく愛」に価値を見出しており、狂気に基づく愛においても、相手を愛する理由は確かに存在する、と考える。
そして、プラトンは「神話」によってそれを説明しようとする。

神話などと聞くと訝しく思うかもしれない。しかし、プラトンの思想は一応筋が通っている。狂気は常識を超えたものだ。そうである以上、それは私たちの生きる現実を超えたものに基づいて、説明されるべきである。私たちを超えたものとは何だろうか。たとえばそれは、神だろう。そうであるとしたら、神との関係から狂気を説明したとして、そこには何も不思議はない。

本書より

プラトンによれば、人間の魂は不死であるが、人間には寿命があり、いつかは死ぬ。しかし、死んだ後に人間は死後の世界に舞い戻り、しばらくしてから再びこの現世に生まれ落ちてくる。つまり、人間の魂は輪廻転生すると考えられている。

ここで死後の世界とは、神々の住む世界であるが、人間は現世に生まれ落ちるとき、神々の世界の記憶を全て失くしてしまう。つまり、生まれてくる前は心理が何であったのかを知っていたのに、それを忘れてしまうのである。

さて、説明が長くなったが、ここで話が恋愛に戻ってくる。
つまり、私たちは誰かに恋をした時に、神々の世界にいたころの記憶を思い出す。プラトンはそのように考えるのだ。

なぜなら私たちは、その人の美しさのうちに――ここでいう美しさとは、単に見た目がよいということだけではなく、もっと深く、神秘的な魂の共鳴のようなものだろう――、神々の世界の美の面影を見出すからである。

本書より

大変面白い考え方だが、これはどう考えてもフィクションである。
著者は、この点について次のように説明している。

しかしプラトンは、そうしたフィクションでなければ説明することができない、ある種の特有な感覚が、愛にはあると考えたのだ。それは何なのだろうか。
筆者が解釈する限り、おそらくそれは、私たちが誰かに恋しているときに感じる、ある種の懐かしさではないだろうか。

本書より

さて、以上が本章に関する私なりの要約である。では、本章での議論について、どのように評価をすべきだろうか。

今までこの書評を読まれた方の中には、神話に理由を求める考えについて、「バカげている」とか、「根拠がない」などと考える方もいらっしゃるかもしれない。

しかし、私は「なぜ、誰かを愛している理由が説明できないのであろうか」という問いに対する答えそのものよりも、「理由が説明できるような恋愛は、実は本物の恋愛ではない」という考え方の方に大変感心させられた。

「私が彼女を愛しているのは、彼女が美人だからだ」、あるいは「私が彼を愛する理由は、彼がイケメンだから」というように、愛する理由を明確に言えるような「愛」は、本物の愛ではないかもしれない。恥ずかしながら、私は今まで考えたことも無かった。

そして、「なぜ、誰かを愛している理由が説明できないのか」ということについて、「神話」から理由を考えたという発想については、私には「バカげている」と感じるよりも、ある意味とても「斬新」に思えた。
いや、プラトンが生きた時代は紀元前であり、今から2000年以上前の話なので、「斬新」という言い方はおかしいかもしれない。
しかし、その理由を神話に求める、ということは、私には想像すらできない。だからとても”斬新だ”と感じる。そして、神話に理由を求めたくなる、ということはそれだけ恋愛が本質的に不思議なものだ、ということだ。

2.なぜ恋人に愛されたいのか?…ヘーゲル

次に私が注目したのは、「なぜ、恋人に愛されたいのか?」ということである。言い換えると、「なぜ、恋愛は片思いではうまくいかないのだろうか」という疑問である。

今日において(中略)恋愛とは、自分が相手を愛するのと同様に、自分も相手から愛される関係として理解されているはずだ。この意味において、恋愛は相互的な関係である、と言える。

本書より

確かにそうである。恋愛は著者が指摘するように、「恋愛は相互的な関係」なのである。
しかし、なぜそうなのだろうか。この点についても、私は今まで当たり前のことだと考えて、深く思考したことが無かった。

最初に紹介したプラトンの考えは、恋愛を「相手を愛する」という能動的な行為としてとらえていた。
これに対してヘーゲルは次のように考えていたと、著者は指摘する。

彼によれば、人間は、離散した点として存在するのではない。他者との関係なしに自分を自分として実感することもできない。むしろ、他者から愛され、重要な存在として承認されることで、初めて自分自身を理解することができる。(中略)
愛されることで、初めて、人間は自分がどのような存在であり、どんな価値を持っているのかを、理解できる

本書より

この指摘を読んで、大変卑近な例で申し訳ないが、大学時代に同じサークルで1年先輩だったある女性のことを思い出した。
ある時、恐らく初めて、彼女に恋人ができた。彼女は、私を含めたサークルの全員に、「彼氏ができた」と公言して回っていた。そしてその時の彼女は、文字通り“光り輝いて”いるように、私には見えた。
彼女にとってみれば、著者が指摘するように、「愛されることで、初めて、人間は自分がどのような存在であり、どんな価値を持っているのかを、理解できた」というような感じだったのであろう。

愛されるということは、他者にとって自分が特別な価値を持つ存在であると、他者に認めてもらえることである。この意味において愛は「承認」である。他者から愛されることは、他者から承認されることに等しい。したがって、ヘーゲルの恋愛論は、人間関係における承認の問題として考察されることになる。

本書より

上述の、1年先輩の女性は、残念ながら(?)男性から人気がある存在ではなかった。それだけに、自分のことを愛してくれる「彼氏」ができたことは、「自分自身の価値が理解され、承認された」と感じたのだと、私は推察している。

さて、愛が「人間関係における承認の問題」ということであれば、愛は「私」と他者とが相互に承認し合う、ということになる。
そしてさらに著者は次のように指摘している。

他者を愛するとき、「私」は自分と他者が一体であると感じる。(中略)もしも「私」が他者を愛しているのなら、「私」とは他者と一体になった存在を指しているのであって、その他者がいなかったら。もはや「私」も存在しない。そう感じる状態に至ることが、恋愛をしているということなのである。
ヘーゲルによれば、こうした愛は、二人が結婚することによって完成する。

本書より

(もしかすると、少し議論が飛躍しているように感じられるかもしれない。原著では、著者はもっと丁寧に議論を展開しているので、不満をお感じの方には、原著を読まれることをお勧めする。)

愛し合う二人が結婚するのは、「互いに惚れ合っているから」と見ることもできるが、ヘーゲルは「相互承認による一体化である」と考えるのである。
他者を承認すれば相互承認が実現し、愛が成立する。「私」は他者を愛するからこそ、他者からも愛される、ということである。

相互承認の帰結として一体化することを愛として捉えるヘーゲルは、その完成を結婚に見出していた。こうした恋愛観は、一般にロマンティック・ラブと呼ばれるものであり、(中略)今日においても非常に強く根付いている。この意味においてヘーゲルは現代の恋愛観を完成させ、そこに強固な理論的基礎を作り出した哲学者である、と評することができるだろう。

本書より

以上が本章に関する私なりの要約となる。

この章の議論によれば、最初の疑問である「なぜ、恋人に愛されたいのか?」、あるいは「なぜ、恋愛は片思いではうまくいかないのだろうか」ということは、恋愛とは相手に自分を承認してもらい、相互承認の関係となって、最終的には結婚によって一体化することを目指すからだ、ということになるだろう。

もしかすると、「最終的には結婚によって一体化することを目指す」ということに違和感がある方もいるかもしれないが、基本的には非常に納得性の高い話であると、私は考える。

私が例に挙げた大学時代の1年先輩の女性の例にもあるように、相手と両想いになることで、人生が変わるような経験をする人も存在している。
異性からモテる人にはわからないかもしれないが、誰かと両想いとなる、ということは、ヘーゲルが言うように、誰かに承認されることであり、重要なことなのである。

Ⅲ.終わりに

本書では、7人の哲学者による恋愛論が説明されており、それぞれ非常に興味深い。
最初は、7人の理論の全てを要約してみようかと思ったが、やってみるととても私の手には余ることがわかった。この書評を読んで、内容に興味を持たれた方は、私が要約した(あるいは「要約したと思っている」)2人の哲学者の議論も含めて、原著を読まれることをお勧めする。

本書を読んで、改めて「恋愛とは何か」という話の奥深さに触れた気持ちになった。
恋愛は、私たちが生きていくうえでは大変身近な問題である。しかし、大変身近な問題であるからこそ、よくわかっていないし、考えてもいないものだ。
本書はそうしたことに気づけただけでも、読んで価値があるものだったと考える。

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