探究と研究は違う??
こんばんわ。
この話は高校教員とのミーティングで、私が必ずと言っていいほど話す内容です。
この「探究」という言葉は厄介な言葉だなとつくづく思います。
・そもそも「探究」の意味って何?
・「探求」と何が違うの?
・進路講演って探究でしょ?
もう挙げればキリがない…。
とある学校の時間割を見ると、「総合的な【探究】の時間」なのに、「総合的な【探求】の時間」となっていたりする場合もあります。
あえて意図的に【探求】と使っているのであれば理解はできるが、果たしてそうだろうか…?
解釈が人それぞれバラバラすぎるので、そこを統一する必要があると考えています。
真面目な教員ほど知らないうちに「研究」をしている
さて、本題に戻ると「総合的な探究の時間」(以下、総合探究)に「研究」をすることには大賛成だ。実際、SSHの学校はそうしているケースがほとんどです。
ただ、「探究」をしているはずが「研究」になっている…。
このケースが実に多いと思うのは私だけでしょうか…?
「総合探究で研究をしないといけない」と思い込んでいるケースが多いと感じています。
学校に設備、人材が集まっていれば可能かもしれませんが、そうでないケースで「研究」をすると、「研究もどき」にしかならない気がします。
ということで、簡単に図にまとめるとこのようなことが言えるのではと考えています。
発表はなんでするのか?
学校ではよく成果発表会などをすることがあるが、学習指導要領では発表と記載しておらず、「まとめ・表現」と記載されています。
生徒のための発表会のはずが、「どれだけ教員が指導したか」という生徒を媒体とした「教員の発表会」を何度も見てきました。
今一度、生徒の資質・能力の育成の立場になって考える必要があると考えています。
また、教員側の視点で言うと、生徒に総合探究で「研究」をさせたいのであれば、それは非常に良いことだと思うのだが、生徒に「探究」をさせたいのに「研究」になってしまうケースは関係者全員の不幸しか生まないと思われます。
一部学力偏差値の高い生徒を除けば、生徒の良質なアウトプットにはほとんどならない(時間がないので当たり前)、生徒目線で言うと、「何のためにやっているか分からない」状態になってしまうのではないかと思われます。
こうならないためには、「生徒にどのような能力を身につけて欲しいか」を教員が考える必要があると考えております。
私自身も成果物にこだわらない探究学習を今後も模索していきたいと考えているし、またそのような探究の形が増えていくことを願っております。
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