髪を染める日
私の黒髪は硬い癖毛で。
どんなにドライヤーやヘアアイロンや整髪剤を使ってもまっすぐにもさらさらにもならなかった。美容院で縮毛矯正をしてまでまっすぐにしても、前髪だけがおかしな方向に跳ねた。
可愛い子たちはみんな、さらさらの髪をして、流行りの髪飾りをつけていた。ヘアピンを巧みに操り、毎日がパーティのような、いや、パーティにしてしまうような、学校生活を楽しく過ごすための魔法めいたもので自分たちを飾っていた。
なのに私の髪は硬い癖毛で、ぽちゃぽちゃの顔を隠すための長さを保ちながら、決して飾ることも染めることもない黒色のままだった。
黒髪と眼鏡のキャラでいいんじゃない?
私ってそういうキャラじゃない?
現実から目を背けるために自分にそう言い聞かせた。
私は「不美人」だ。
私には魔法は使えない。
醜い足掻きはするべきではない。
時々髪型をハーフアップにすることがその、ほんの小さな足掻きであることには気付かないふりをした。
社会人になって数年が経った。
毎朝、ファンデーションを塗りたくり、顔色の悪さを隠すためにチークをはたいた。色付きリップは私の唇の血の気のなさを隠してはくれなかったけれど、明るい色をつけるのは憚られた。いかにも「化粧」をすると、職場の人々に異変を指摘されるのがわかっていた。
最後に髪にヘアアイロンを当てながら、ふと思った。
美容院、どのくらい行ってないっけ。
癖のある硬い黒髪は胸を超えるほど長く、毎日一つに縛るだけだった。
けれど美容院に行く、という予定自体がわずらわしかったし、出勤時間が迫っていたからすぐに忘れた。
その頃、私は極まっていた。
精神的に追い詰められて、通勤電車の中で理由のない涙を流していた。毎日のように37度を超える発熱があった。這うように出勤し、笑顔を貼り付けて仕事をし、必死になって昼食を食べた後は誰もいない部屋で横になっていた。そうしないとデスクに座るだけの体力が回復しなかったからだ。
毎日、毎日、心と身体が燃え尽きようとしているところに粗悪なガソリンをつぎ込んでなんとか生きていたから、「ここで止まると死んでしまう」と本気で思っていた。
よし、髪を染めよう。
何かを変えたいとか振り切りたいとかいう理由からではなく、それはガソリンだった。私は頑張っている、自分で自分を律して精神を保つことができる、その方法を取ることができる。そこから来た「髪を染めよう」だった。
髪を、これまでになく短くした。
髪の先が肩に当たらないのは初めてだった。
色は少し明るめのブラウンにした。
染めたその日に職場の忘年会に行った。
みんな「誰かわからなかった」と言った。そして私の心の変化について尋ねたけれど「そういう気分だったんです」と笑って答えた。「いいね、素敵だね」「短いのも似合う」当たり前のように、まるでそう言うことが礼儀のように、誰もがそう言ってくれた。
まるで別人になったように思って、ああ、と気付いた。
私は魔法を使ったんだ。この唾棄すべき毎日を少しでも楽しいものにするために、髪を切り、染めたんだ。
でもどうしてだろう。
脳裏に浮かぶあのクラスメートたちのように、笑えていない、自覚があった。
そしてそのとき、多分私は燃え尽きてしまったのだと思う。
年末年始の休暇が明け、しばらくしたある日、職場で号泣した。
糸が切れたように涙が止まらなくなり、休みたい、寝たい、と繰り返した。
頑張ろうとしたんです、自分を支えようと思って髪を切って染めたんです、楽しいことをすれば頑張れるって思ったから。
魔法、かかってないじゃん。
そういうことを訴えたし考えていた、と思う。
いくつかの出来事を経たけれど、当時のことはあんまり覚えていない。身体の疲労感が凄まじく、それから普通の生活すらできなくなったからだ。
たくさん、たくさん、寝た。
階段の昇降は休み休みでなければ不可能だったし、十分歩くだけで貧血を起こして座り込み、常に息苦しかった。
寝て、座り、寝て、を繰り返した。
そうやってエンジンを止めたけれど、私は死ななかった。
社会的には死んだかもしれないけれど命はあって、家族と友人は優しくしてくれ、Twitterでしかやりとりのない人たちは休みなさいと言ってくれた。
そしてある日「髪を染めなきゃな」と思った。
根元の方が黒くなってきたし、髪が伸びたせいで跳ねるようになっていた。
カットはどうしますかと尋ねられ「短くしてほしい」と以前と同じ写真を見せた。
カラーはどうしましょうと問われ「明るい色がいい」と見本を示した。
カットとカラーをする間、座っている時間が長いのがかなり辛かったけれど、熱くて強いブローが終わって鏡を見たとき、あっと思った。
魔法がかかっていた。
春の終わりの、日差しの強さに負けないようなオレンジブラウンの髪。顔は、ぽちゃぽちゃが増して、さらにむくんでいるのに、不思議と以前のようにひどくは見えない。
服を買わなきゃ。次にそう思った。この明るい髪に似合う、綺麗な色の服を。ルーティーンしていた仕事服は全部捨てて、着たいと思う服だけをクローゼットに詰めたい。友人たちに声をかけようか、出掛けようと誘ったら乗ってくれるかな。
頑張れるかな。
頑張りたいな。
芽が出るように、そう思った。
そうしていま、私の髪は赤みを帯びたブラウンに染まっている。長さはあれから短いまま、肩を超えることはしていない。
私はいまでも美人ではないし、痩せはしたけれど眼鏡で、この季節は肌荒れがひどい。
そして仕事をしていると、必ず左側の前髪がぴょこんと跳ねる癖がついてしまっている。
けれど鏡を見たとき、私には魔法がかかっているのがわかる。
好きな色に髪を染め、好きな服を身につけ、好きな化粧をしている私がいる。
醜い足掻きなんかじゃない。
なりたいと思う自分になる、それを望むのは当たり前のことだと、許すことができたからそう思える。
私の黒髪は硬い癖毛だったけれど、魔法が使えないとはもう思っていないし、思わない。
魔法をガソリンにするなんて愚かな真似もしない。多分。
そうであれ、と髪を切り染める度に、鏡に映る自分に祈っている。
今日の進捗。
・書き物作業(9h)
・note更新
今日嬉しかったこと。
・そろそろ終わりが見えてきた。
・アイス美味しい。
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