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【エッセイ】人生のどこからやり直したい?

「人生がやり直せるとしたら、どこからやり直したい?」

先日、友人と他愛もない会話を楽しんでいる時にこんな話題が上がった。
私は、うーん、と少しばかり考えこんでしまって、その時ははっきりと答えられなかった。
やり直す必要がないほど今まで選んできた人生の選択に誇りを持っているけれど、まったく戻りたくないと言えば嘘になる。
その話題が楽しい空気の中に溶けていって、やがて歓談が終わり友人と解散した後も、私はずっと頭の隅で自分に問いかけていた。

私は、人生のどこに後悔を置いてきたのだろうと。

ふと頭をよぎったのは、中高時代を同じ学校で共にしたRの顔だった。
Rと同じクラスになったことは中高6年間の中で終ぞなかった。教室の外の廊下で会えば手を振りあうけれど、休日に待ち合わせて街へ遊びに行くほどの仲じゃない。Rは言ってしまえば「友達の友達」だった。だが、私はRとのちょうど良い距離を心地よく感じていたし、Rに対して好感を持っていた。

思い出すのはあの日。中学3年生の…夏だったか。

他クラスの友人を訪ねた時。目当ての友人はRと何やらふざけてくすくすと笑い合っていた。
何をしているの、と駆け寄って二人の手元に目をやると、分厚い辞典がそこにあった。
英英辞典だったか英和辞典だったか。英語が書いてあったのは記憶の中で確かである。
「あ、内池。ねー聞いてよ、この子ったらね」
Rは心からおかしそうに笑いながら、私にことの経緯を説明してくれた。
手元の辞典はRの私物であり、そしてこの隣で笑い転げている友人はこの辞典に載っている英単語の中から、卑猥な言葉ばかりをピックアップして蛍光ペンでマークしていたのだと。
実に馬鹿らしい、可愛らしい中学生の戯れである。
Rと友人が「面白いでしょ?」と私に同調を求めるように笑っていたが、私の関心は蛍光イエローにハイライトされたエッチな単語ではなく、辞典そのものに集中していた。

衝撃だった。

というのも、我々の学校は電子辞書の持参を義務化しており、ひとり一台はそのコンパクトに軽量化された情報の固まりを持っていたのだから、Rが分厚い紙の辞典をなんでもない日に学校に持ってきていることに私は驚愕したのだった。
聞けば、Rは大量の教科書や参考書だけでなく、毎日その辞典を学生鞄に詰めて持ち歩いており、授業中もなるべくその辞典を利用しているとのこと。
辞典に目をやると、幾重ものページに付いた大量の付箋やシワたちがRの話が事実であることを雄弁に証明していた。
勉強嫌いの私は信じられない思いでいっぱいだった。
中高一貫の学校に在籍していて、ほぼストレートでの高校進学が約束されている環境下で、何がここまで彼女を勤勉にさせているのかと。
不思議でしょうがなく、また、彼女がとても眩しく見えた。
私はただただ、感嘆することしかできなかった。

やがて私たちは一緒に高校へ進学し、その高校の卒業を迎えた。
Rは私たちの学年で唯一、東京大学に現役合格し、華々しく次のステージへと飛び立っていった。
彼女が大学受験に合格したと人づてに聞いた時、私は心の底から納得した。
きっと彼女は、あの辞典の言葉のほとんどを自分の言葉にしてみせたのだろう。

人生がやり直せるとしたら。

あの時、Rに感銘を受けて自分も同じように実践してみれば、何かが変わったのだろうか。
そんな勉強熱心な人間もいるのだな、と他人事にしなければ。
私だってRと同じ入試問題を解いて中学に入学し、同じ制服に腕を通していたのだから。
辞典どころか宿題のプリントすら持ち帰らず、弁当箱だけを学生鞄の中に入れて通学していた置き勉常習犯は、そのまま置き勉を貫き続けた。その結果、あのいたずらに蛍光ペンで塗られた英単語ひとつすら思い出せないまま大人になってしまった。

それだけが、小さな胆石になっている。

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