ひたすら性を道具として用いる者たち:映画〈先生の白い嘘〉を観た感想
先日、映画〈先生の白い嘘〉の公開され、監督へのインタビュー記事が話題になりました。
そのなか最も話題になったのが、主演である奈緒さんと制作陣の間にインティマシー・コーディネーター(性描写などの身体的な接触シーンで演者の心をケアするスタッフ)を入れなかったということです。
奈緒さんは監督にインティマシー・コーディネーターを入れてほしいと頼んだにもかかわらず、監督は「方法論として」インティマシー・コーディネーターを入れない方針をとったのです。
では、その方法論とは何だったのか?
この記事では、〈先生の白い嘘〉を観た感想を語ります。
そのなかで、監督の方法論としてのインティマシー・コーディネーターを入れなかった理由を考察してみたいと思います。
物語冒頭のあらすじ
主人公である原美鈴は控えめな高校教師です。
彼女は男女は不平等で、女性は損していると考えていました。
ある日、彼女は親友である渕野美奈子と早藤から結婚することを伝えられます。
しかし、この早藤こそが、美鈴に性の格差の意識を植えつけた張本人でした。
美鈴と早藤は、恋愛関係にこそありませんが、身体の関係がありました。
その関係は、あまりにも過酷な主従関係に縛られており、早藤は美鈴を力でねじ伏せ、それは脅迫にも当たる卑劣なものでした。
そんなある日、美鈴は生徒の新妻祐希から性の悩みを打ち明けられます。
その内容は、「女性のあそこが怖い」とのこと。
彼はアルバイト先の女性店主から誘惑され、貞操を奪われました。それ以来彼は女性の性器を恐れるようになりました。
それを聞いた美鈴は早藤からレイプされた過去を思い出し、新妻が自分の意思で女性と関係をもったと言わんばかりの勢いで彼の気持ちを否定します。
それこそ、彼女が早藤に植えつけられた思い込みでした。
自分がレイプされたのは自分が求めたからという早藤からの洗脳がそのまま新妻を否定したのです。
※ここからネタバレになります。
性の快楽と承認欲求の混同
美鈴は早藤に、原さんじゃないと気持ちよくないと迫られます。
それに彼女は応えてしまいますが、そこに官能的な感情はありません。
このシーンは官能的に描かれ、あたかも性の快楽に溺れているように描かれていますが、それは彼女の誤謬です。
彼女が彼の欲望に応えざるを得なかったのは、快楽への渇望のためではなく、承認されることへの渇望があったからです。
自分には何の価値がないと思っていたからこそ、セックスすることで他者を満足させることができるから、そうするしかなかったのです。
しかしそれこそが早藤の狙いなのでしょう。
ひたすら彼女を価値下げすることによって、自分の思い通りにすることができる。その上支配的な性行為をすることができる。まさに早藤にとっては一石二鳥だったのです。
女は男より弱いわけではない
その後、新妻は美鈴に謝るために彼女の自宅を訪れます。
彼は彼女が面談中に涙を流したのは自分のせいだと思っていたのです。
ところが彼女はつい、女は男に守られるものだと思っているんでしょ! というふうに言い返してしまいます。
これがある種の直面化になっていたのでしょう。彼女のなかに、女は男より弱いわけではないという意識が芽生えます。彼女はハッとして我に返り、彼の気持ちを受け止めます。
これが彼らの距離を縮めるきっかけとなります。
彼は彼女の庭に生えている植物に関心をもちました。そして、彼は彼女にまた来てもいいか尋ねます。
彼女は「ダメに決まっているでしょ!」と答えますが、彼は「なんでですか」と疑問にもちます。
これは美鈴と新妻 vs. 美鈴と早藤の関係を対比していると考えられます。
これとは前に、美鈴は早藤から迫られるのを拒否するシーンがありますが、早藤は「なんで?」と一蹴し、彼女を力と脅迫でねじ伏せてしまいます。
一方新妻は純粋な庭の魅力から彼女(への訪問)を求めました。そこに彼女が拒否する理由はありません。
その後、新妻は美鈴に防犯ブザーを渡しますが、彼女が誤ってそれを鳴らしてしまうと、彼はとっさに彼女を押し倒してしまいます。
彼女のトラウマが想起され、叫ぶとまた彼はとっさに彼女の口を押さえてしまいます。
防犯ブザーは止まりましたが、彼は自分が彼女を押し倒した、口を押さえたという暴力性があることに恐れおののきます。
彼女もまた、どんな優しさがあろうとも、男女に(少なくとも身体的な)力の格差は必ずあると思い知らされます。
愛から力を得る
それから学校に来なくなってしまった新妻に美鈴は公衆電話から電話をかけます。
そこで彼は彼女に好きだという気持ちを伝えました。また、彼女の嫌いなものは自分も嫌うことを伝えました。
しかし、彼女は遠慮します。
「私の敵は私だから」と。
つまり彼女は、単純に早藤と主従関係にあるというわけではなく、女は男に支配されるしかないという思い込みを打破する必要があると気づいたのです。
そうして彼女は早藤からの支配を毅然とした態度で拒否し、決別することに成功します。
リベルタンである早藤は子どもができることを束縛と捉える
しばらくして、美奈子は早藤との子を身ごもります。
それに早藤は内心ショックを受け、怒りに満たされます。
皆さんはリベルタンというものを知っていますでしょうか?
リベルタンとは、性的束縛に対して服従することを拒む者のことです。
元々は「信仰および宗教的義務に従うことを拒否する自由な精神」を意味する言葉でしたが、それは置いておきます。
リベルタンはカトリックの性的態度と対照されます。
カトリックは性交の第一の目的を子どもを産むこととしているのに対して、リベルタンはそういった束縛を打ち破ろうとしています。
つまり、早藤はリベルタンだったのでしょう。子どもができるということは早藤に重大な責任を負わせ、彼の自由を侵害することになるのです。
女性への憎しみ=女性への恐怖
それからなんやかんやあって美鈴と早藤は再び対峙します(ここまでの流れは映画化に伴う短縮化によって整合性がとれていないと思う)。
彼らが会う前に、彼女は美奈子から口紅を借りて、自身の唇を赤く彩ります。
これこそが、「先生の白い嘘」を上塗りする象徴的な描写なのでしょう。
女は男に逆らえないという空虚な白い嘘を打倒し、女性にも力があるということを示す描写だと思います。
彼女は早藤に、彼が女性を憎むのは女性を恐れているからだと直面化させます。
女性が男性と対等な立場に立ったとき、自分の権威が薄れてしまうという恐怖から、女性を見下すという行為が現れるのです。
そこで美鈴は早藤を許すと言います。
これが早藤をどん底に突き落としました。
許しというのは、対等な関係があってこそ成り立つものです。早藤は、女は男を許さなくてもいいから男に従っていればいいという思想の持ち主です。つまり、許されないということが女と男の主従関係を明確化し、早藤を性的に自由にさせていたのです。
それが許されることによって脅かされました。許されるということは、その分真っ当に生きなければならないという責任を負うということでもあるのです。
それに耐えかねた早藤は美鈴をボコボコにします。
これは、美鈴の予想の範疇だったんじゃないかと思います。
身体的な力で負けることは、新妻から押し倒されたことですでにわかっていたことでした。
しかし、彼女には身体的な力で負けても、信念で負けることはないという確信がありました。
だから彼女はボコボコにされることを覚悟して、早藤を打倒するために対峙したのではないかと考えられます。
生きる価値がないことに気づいた早藤
その後、早藤は自殺を図りますが、美奈子によって阻止されます。
彼は彼女に「生きる価値ない」と泣きつきます。
女を見下すことで自分に価値があると思い込んでいた早藤にとって、男女は平等であることを直面化されたことは、生きる価値がなくなったことと同等でした。
それに対して美奈子は「そんなことは前から知っている」と言います。彼女は初めから彼を愛していたわけではなかったのです。美奈子は自分の幸せのために早藤を飼っていたのでした。
それでも彼女は彼に、「今できることをしろ」と言います。
ところが、彼が選んだのは自首でした。彼は自ら警察に電話し、自分が女性を犯したことを明かしました。彼は、子どもを育てる責任を負うより、罰を受けることを選んだのです。そこがリベルタンとしての意地のように感じられました。
男である限り許すことはできない
退院した美鈴ですが、どういうわけか、美鈴と新妻がキスしている画像が学校中で広まってしまいます。
これについて他の先生は「何もなかったと言えばいい」と説得しますが、美鈴は即教師を辞めることを告げます。
きっと、早藤との対峙ですべてのエネルギーを使い切ったのではないかと思います。
同時に、早藤から植えつけられたトラウマは根付いたままだったのでしょう。
もはや、彼女に性に向き合うことはできなくなってしまったのです。だから、新妻の気持ちも差し置いて教師を辞める道を選んだのだと思います。
「男である限り許すことはできない」と新妻に伝えたのも、自分の限界を理解していたからなのではないかと思います。
性を道具として使用する
この物語において重要だったのは、登場人物の皆が性を道具として使用している点にあると思います。
この章では、各登場人物がどのように性を使用していたか考察します。
原美鈴の場合
美鈴の場合、性を勇気と恐怖の対象として利用していました。
まず、彼女は新妻からの愛によって勇気を与えられました。
それにもかかわらず、彼女は最終的には彼の気持ちを振り払って去って行きます。
このとき、彼女は彼に「君ができることは全部やった」と伝えます。
これを見て、私は「お前はもう用済みだ」と言っているように感じました。
実際に新妻は泣き崩れていたので、失望を与えたのは確かでしょう。
また、彼女は早藤に女性に対する恐怖を直面化する際に、自分の性器を見せつけています。
これは、女性=女性器=恐怖という構造を表象しています。
彼女は男女平等を示すために、自分の性(器)を使用したのです。
新妻祐希の場合
新妻の場合、最も純粋のように感じられますが、彼は美鈴を守ることと性を同一視しています。
男は弱い女性を守らなければならないという性の格差が彼にも存在していたのです。
これは美鈴の「女は男に従わなければならない」という思い込みのアンチノミーとして機能しており、結果的に彼女の反抗の意思に力を与えます。
早藤の場合
早藤の場合は一見快楽のために性を使用しているように見えますが、実は自分の価値を維持するために使用しています。
むしろ彼にとってはセックスは道具でした。セックスがないと、彼は自分の価値を保てないのです。
渕野美奈子の場合
美奈子は強い女性のように描かれますが、彼女もまた、性を自分(と子ども)の幸せのために利用しています。
早藤をろくでもないやつと知っていながら、彼を飼っていたのは、自分に幸せな生活を与えてくれると踏んでいたからでしょう。
早藤の逮捕後は普通に自立して生活をしているところを見ると、完全に早藤に依存していたわけではないようですが。
早藤の自首はある意味では彼女の成長につながっていたのかもしれません。
三郷佳奈の場合
三郷佳奈(ミサカナ)は美鈴の生徒の一人であり、映画ではそんなに出番はなかったが、彼女もまた性を使用している重要なシーンがある。
彼女は理科室で和田島(男子生徒)に胸を揉ませるが、最後まではしないことを決めている。
彼からどうしてそんなことをさせるのかと問われると、「そうすれば言うことを聞くから」と答える。つまり、性を異性を操るために使用しているのである。
なぜ監督はインティマシー・コーディネーターを起用しなかったのか?
それでは、なぜ監督は奈緒さんとの間にインティマシー・コーディネーターを立てなかったのだろうか?
はっきり言ってここに正当な答えはないだろう。
しかし、監督の意図を予測すると、奈緒さんを美鈴の状況と最も近づけるためだったのではないかと考えられる。
つまり、現実とフィクションの境をできるだけなくそうと試みたのではないかと考えられる。
しかし、これこそ性の使用だろう。
監督は自分の芸術的体現のために、奈緒さんの心を犠牲にしたのである。
実際に奈緒さんの心はそこまで傷つけられなかったのかもしれない。
しかし、彼女がインティマシー・コーディネーターを入れてほしいと申し出たにもかかわらず、彼はそれを拒んだ上で、「女性として傷つく部分があったら、すぐに言って欲しい」と言った。
何のためにインティマシー・コーディネーターがあるのかという話である。
そう言っておけば配慮したことになると思っていたのだろうか。
私も小説を書いている身としては、フィクションと現実の境を薄めたいとは思っている。
しかし、映画の場合は、その芸術は自分だけで創るものではない。
多くの人によってあらゆる作品というものは成り立つのである。
そういうことをクリエイターは考えていかなければならない。
まとめ
とはいえ、映画はとても素晴らしかった。
奈緒さんの演技も風間俊介さんの悪役もとても迫力がありました。
ところどころ整合性がとれていなく、原作の奥深さ(私は原作を読んでいませんが……)がはしょられていたりもしましたが、テーマとしては感慨深く、私も奥行きのある記事を書けました。
繰り返しになりますが、映画は多くの人々によって創られます。
そのなかで出演者や一部のクリエイターの権利が損なわれることはあってはなりません。
性の格差を描く作品のなかで、そういった出演者への軽視があったことは非常に残念です。
そんなこともあって、本作を視聴することには複雑な気持ちがありましたが、結果的に観て良かったと思っています。
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