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「遊び」という現象|雑誌『Tired Of』

イノベーションの文脈から、「遊ぶ」ことが肯定的に捉えられる時代が続いています。それを象徴するかのような雑誌『Tired Of』の創刊号は、外出自粛を求める社会に「路上」の大切さを訴えます。遊びを行為ではなく、現象として捉える姿勢に未来を作るヒントがあると思うのです。

 長引く新型コロナウイルスの影響によって、今、最も制限されているのは「遊び」だろう。緊急事態宣言下の都市において、自粛すべきは他人との濃厚接触に限られるはずなのに、次々と中止されるイベントや閉じたままの飲食店を見ていると、遊ぶことに罪悪感を覚えてしまう。ちょうど10年前、東日本大震災直後のやるせなさを思い出すのは私だけだろうか。当時はとてもじゃないけれど、遊びたいという気持ちにはなれなかった。

 このタイミングで創刊された雑誌『Tired Of』は、「退屈」あるいは「暇」を意味するタイトルとは裏腹に、遊びの居場所を耕そうとする。それはまるで子どもが横断歩道の白線を踏まないように歩いたり、階段の手すりを滑り降りたりするように、何気ない日常生活を創造性で埋める行為に他ならない。編集長である渡辺龍彦氏が國分功一郎氏の名著『暇と退屈の倫理学』を引いて、インタビューで語った言葉が印象的だ。英語の「Play」が能動的な<行為>である一方、日本語の「遊ぶ」は中動的な<現象>であると。つまり「暇」を埋めるのが「遊び」ではなくて、「暇」自体が「遊び」だったりする。「よく遊び、よく学べ」とは昔から言われてきたけれど、これも明治初期にアメリカから持ち込まれた諺だと知ると納得だ。

 先日、学生時代からの友人・伊藤雅人氏がパーソナリティを務めるラジオ番組で、本人との対談の機会をいただいた。アメリカでギタリストとして生計を立てる彼とは、高校時代に一緒にバンドを組んでいた仲だけれど、当時を振り返って、いかに彼がギターで「遊んで」いたのかを思い出した。ギターを抱えたまま寝落ちしてしまい、朝を迎えるような日もあったと言われると、まさに寝る間を惜しんで練習に励んでいたのだと尊敬するけれど、きっと彼にとっては、暇な時間にギターで「遊ぶ」ことこそが日常生活だったように思うのだ。一つのことに、とことん浸ることのできる人だけが、アートやスポーツの力で世界を変えることができる。

 そこまで音楽に一途になれなかった私は、同時にコンピュータで「遊び」、結局はこれを生業としている。しかしITの世界には、大人になってからもITに一途な方々が大勢いる。平日日中はクライアントのためにプログラムを書きつつも、夜間休日は自分のため、社会のためにプログラムを書く。そんな「遊び」がいわゆるフリーソフトやオープンソースの文化を育ててきたわけで、インターネットが当初夢見た理想郷は多少なりとも実現しているように思う。そこにはもちろんITを職業としない方々も集まって、第二の生活圏が作られようとしている。Twitter、Instagram、Youtube、Amazon、目的があろうが無かろうが、スマートフォンを開いてインターネットを覗くことが日常となっている。

 「暇」自体が「遊び」だと言うならば、いよいよ「遊び」はインターネットに集約されてしまったのではないだろうか。大人の「遊び」の中心がインターネットに移ってしまったのだから、小学生がユーチューバーに憧れるのも仕方がない。私を含め、多くの大人たちが覚える違和感は、ここに身体性が伴わないことだろう。弦をつまびき空気を震わす感覚、弾むボールをゴールに向かって蹴る感触。地球との対話の機会を避ける態度は、人間として生きることの意味を見失わせかねない。すでに壊れかかっている地球のことを考えるきっかけも失う。だから外に出かける必要がある。

 『Tired Of』の創刊号は「ちゃんとしてなくていい路上。」を特集する。他人との共存が叶うのであればストリートは最高の遊び場で、インターネット以前の溜まり場を取り戻そうとする活動は各地で繰り広げられている。しかし今はこれもウイルスによって妨げられている。<現象>としての「遊び」に不要不急の概念はなく、自粛できるものではないのだから、改めて私たちは創造性で解決する必要性に迫られているのだろう。

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