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アートとビジネスと、セキュリティと

世界中の美術館が臨時休館を続ける中、ドイツのモニカ・グラッターズ(Monika Grütters)文化大臣は「文化(ここでは広義のアート)は良いときにのみ与えられる贅沢ではない」とコメントされました。その意味を、最近のアート作品と社会情勢から読み解いてみると、芸術は物事を正しく評価するために必要な視点だと思えてくるのです。

 20世期以降のアートは社会を批評することをひとつの役割として、時にテクノロジーに抗う。パンチカードがホロコーストを支えたように、核エネルギーが原子爆弾を生み出したように、先端技術を手にした人間はいとも簡単に過ちを犯してしまうのだから、資本主義、社会主義、民主主義のもと、テクノロジーを礼賛する社会に待ったを掛けられるのは、政治でも、経済でもなく、芸術だけなのかも知れない。

 では、私たちは何を恐れているのだろうか。先に挙げた歴史を例にとれば、自由、人権、生命を他者に侵害される可能性に怯えているに違いない。それは広く、安心・安全を担保しようとする人間の摂理であり、セーフティ、あるいはセキュリティの領域とも言えるだろう。これらはテクノロジーによって強化されている面もあるのだから、そのせめぎ合いに生まれるアートはとても興味深い。

 2019年11月から森美術館(2020年2月29日以降、臨時休館)で開かれている企画展「未来と芸術展:AI、ロボット、都市、生命――人は明日どう生きるのか」には、これを象徴するような作品が多く並べられた。その中のひとつ、マイク・タイカ(Mike Tyka)の『私たちと彼ら(Us and Them)』は技術によって思想がコントロールされる様を表現する。レシートのように溢れる出るツイートに囲まれ、その声だけを見聞きしていれば、誰しもその内容に感化されてしまうことだろう。例えそれが架空の人物による、架空の言葉だったとしても、気が付かない。実際、本作品ではAIが呟いている。

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 2016年の米大統領選挙では、選挙コンサルタントによる世論の誘導が行われた。彼らは選挙をビジネスと捉え、デジタルマーケティングの手法でトランプを勝利に導いたのだ。果たしてこれを民主政治と呼べるのだろうか。マイク・タイカの作品で呟いたAIは、当時のツイートを学習したのだという。2011年の東日本大震災では壊滅した情報インフラに代わって、被災者同士を、また被災地と世界をダイレクトにつないだSNSは、安心・安全に寄与する次世代インフラとして評価を集めたけれど、新たに露呈した負の側面に目を瞑ることはできない。

 またラファエル・ロサノ=ヘメル(Rafael Lozano-Hemmer)とクシュシトフ・ウディチコ(Krzysztof Wodiczko)による『ズーム・パビリオン(Zoom Pavilion)』は、セキュリティのために作られた監視カメラが人々を理解する様を表現する。カメラに写った人の動きや顔の表情を読み取り、共に写る人との関係性を導き出すのだ。それは怪しい人物を見分けるためには有効なのかも知れないけれど、無関係な人までをも解析する必要はあるのだろうか。その結果が何に使われるのかも分からない。

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 対して、同時期に開催されたメディア・アンビション・トウキョウ(Media Ambition Tokyo)にて、慶應義塾大学SFC徳井直生研究室とDentsu Lab Tokyoが展示した『UNLABELED - Camouflage against the machines』は、監視カメラを欺くコートだ。これを羽織れば、例えカメラに写ったとしても、人としてAIに認識されことはない。テクノロジーにテクノロジーで対抗しようとする姿勢は危うさを孕むけれど、それを必要とする社会が立ち上がりつつある事実を認めなければならないだろう。

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 著作家、山口周氏の著書『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』によって、一般に広く認められるようになったビジネスにおけるアートの重要性は、製品・サービスに機能以外の価値を作り込むことを訴えるけれど、そのために問われる「審美眼」は見た目の美しさだけを識別する能力ではない。物事を正しく評価する力なのだ。それはすなわち正しい問いを立てるということ。だから今、セキュリティにもアートの力が求められているのだ。

つながりと隔たりをテーマとした拙著『さよならセキュリティ』では、「3章 人と機械 ーAIのセキュリティ」において、AIとアートの距離に近さについて触れております。是非、お手にとっていただけますと幸いです。

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