見出し画像

「介護される気持ち」~難病になった喜劇作家の"再"入院日記11

某月某日

「俺は家畜じゃねえぞ……」

入浴時、自分で動けない者は勝手にシャワーを浴びてさっぱりすることはできない。週一回、決められた時間に看護師の介助を受けながら入浴する。

マスクで10リットル/分の酸素を供給されながら、車いすで連れていかれ、基本的に自分で動くことなく、全ての洗浄作業を行ってもらう。デリケートな部分もすべて。

王様気分で至れり尽くせりのラグジュアリー? 否、現実は違う。決められた時間の中で移動、入浴、着替えをこなさなくてはならないこの一連は、看護師にとっても重労働。そもそもこの入浴はリラックス時間を提供するサービスではなく、清潔を保つための規則作業なのだ。

受け手も快楽を一番に期待してはいけない。作業がスムーズにいくように出来る限り協力する。痒いところは言わないし、洗い流せてないところもない、もう少しこのままじーーーーっとお湯に当たっていたい、なんてとんでもない。そんな雰囲気じゃない。

尻に、遠くからシャワーをかけられていた刹那、ホースで体を洗われている豚の映像がオーバーラップし、猛烈にみじめな気分になった。
それが冒頭の言葉。乱暴な物言いで済まない。だけどそう感じたのが事実。

動揺をごまかそうと、「ブーブー」とあえて豚の鳴き声を出してみた。嫌悪感のアピールでもあったが、シャワーの音にかき消されて単なる自虐に終わった。屈辱感に湯気が立つ。

私は――今後入浴のたびにこんな気分にならなくちゃいけないのだろうか。 

   *

一刻も早く介護状態を脱してやる!

と決意していたら、主治医が来て、要介護認定の話をされた。今後、一時帰宅や、ひいては退院後の生活を考えた場合、自宅に車いすや介護ベッド等が必要らしく、それをレンタルするために、介護認定を受けといてほしいというのだ。

退院時は全て元に戻っていると思っていただけに、肺が破れてると診断された時以上のショック。そんな状態なんですか私……と、聞き返す声も裏返ってしまった。

主治医曰く。線維化してしまった肺は元には戻らない。在宅酸素をしながらの日常生活になることは免れないそう。ベッドも電動の方が呼吸や心臓に負担がない、同様に車いすも……エトセトラ。

即断できず無言を貫く。主治医もそれ以上は求めず、後はソーシャルワーカーやリハビリ担当者に相談できるよう手配する旨だけ伝え、去っていった。

一人になって考える。

とにかく家族に迷惑をかけたくない。1歳8か月の息子、その子育てに忙しい妻。私が退院したことで、妻がより大変になるような事態だけは避けたい。自分のことは自分でする。そのために必要な用具なら、そのための介護認定なら、受けるべきなのかもしれない。

   *

夕方、前回もお世話になったイケメンの理学療法士さんが顔を出してくれる。彼のもつ天性の明るさと、繊細な心配り、知識の豊富さに安心感を覚える。気がついたら、本音を全て彼に吐露していた。

「車いすの練習はやりましょう。様子を見て、少しずつ足を使って歩く練習もしましょう。大丈夫。話している言葉がしっかりしてるから戻れますよ」

なんて頼りがいのある兄貴。ついでに入浴の愚痴ブーブーも聞いてもらう。

「じゃあ、その件は看護師の○○さんにうまく話しておきますよ。大丈夫、任せて」

この人、好き。前回も危うく恋に落ちそうになったことを思い出す。病院内でも、「病」より「人」に向き合う仕事だからか。理学療法士さんて、聞く能力が高い人多くないですか?

「仕事終わってたんですけど、かなつんさんのこと聞いて、思わず立ち寄っちゃいました。話せてよかった」

この人に、飼われたいブヒ……瞬間、私はメス豚になった。

------------------



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?