神楽舞の保存から考える宮本民俗学と地域の未来
私の地元には伝統的な神楽舞が残っている。その存在意義がなんなのか、これまで考えてきたことがなかった。そんな地域行事、伝統芸能を残していく意義を教えてくれたのは日本を代表する民俗学者である宮本常一先生だった。地域の未来を考える上で民俗文化や歴史を振り返ることは大切なことなんじゃないかって思い始めてきたのだ。
記録としての神楽舞
地域で営まれている歴史、文化はものの数年で作られているモノではない。
そのストーリーに価値がある。
それをどれだけ、価値のあるモノとして記録として残していけるかが大切になってくるのではないと。
私が生まれた田舎でも神楽舞という伝統芸能が存在するが、存在は知っていてもその神楽の意味など、主軸となるストーリーを理解している人間は村内でも少ない。
その価値観がどれだけ多くの人に見えるように知ってもらえるか。
私の地元には伝統的な神楽が残っていて、現在も神楽の保存会があり、村という小さいコミュニティながらその伝統を引き継いでいる。
一度、途絶えた事があったのだが、ある人物による鶴の一声で復活を遂げたらしい。
自分が物心ついた頃からやっているので非常に思い出深い。毎年、春の祭りが村内で開催され五穀豊穣や人々の安全を祈願するものとは聞いたことはあるが詳しくは知らない事が多い。
神楽にはキャラクターがいくつかいる。ひょっとこ、おかめ、、、、あとなんだっけかな。といった感じで記憶も遠い。。。
しかしながら私としては春の祭りでは毎年、玩具屋さんやくじ引きやさんなどの出店しており、それが毎年の楽しみであった。
そこに向けてお小遣いを貯めて、注ぎ込んでいた記憶がある。そんな中で神楽舞は夜に行われる。自分も楽しみにして毎年行っていたそれはなぜか。
お菓子が撒かれるからである。大人も子供もみんなお菓子が撒かれるので必死になって拾う。今となってはそこまでのことだろうかと思ってしまうが、当時は必死だった。
でもよく考えてみるとなんでお菓子が撒かれていたのか、なぜあのお面の人が巻いているのか。謎が多い。
地域の祭りごとは何かしらの意味があって行われている。それが見出せなくなった途端、壊滅してしまうのだ。経費のかかるいらないものとして。
少なくとも何かしらの信仰があってのことだろうから、五穀豊穣や無病息災のようなことであろう。信仰というのはある種の人間の生きる指標であり、道徳につながる部分がある。
人間が生きていく上で必要な事がそこに詰まっている可能性が大いにあり得る。はたまた、地域コミュニティを維持する上でも必要不可欠な事が詰まっているのではないかとも考える。
昨今、地域コミュニティにおいて、コミュニケーションの欠如による原因が、無駄な噂話や村八分に繋がっている。
村の神楽に込めた先人の想いはなんなのか、それを解明してきたいと考える。
宮本常一先生
この分野はおそらく民俗学にあたるのだろうが、そんな民俗学の中でも私が尊敬してやまないのが宮本常一先生である。
宮本先生は地域住民の生活を事細かに記録し、研究をなさってきた。その記録という行為いが最も尊いのである。
宮本先生はかつて日本中を渡り歩き、調査をしてきたそうだがその軌跡を辿ると地図が真っ赤になるという。それだけ日本中を歩きまわったのはすごい事だが、その記録自体は地域そのもので残していくべきなのではないかと考える。それは今だからこそである。
こんなにもデジタル機器、特にカメラが充実し、ビジュアル記録を簡単に残すとこができるのは現代の技術の進歩があってのことである。
当時のカメラは扱いが難しく、扱える人間も少なかったが、スマホのカメラにおいてはみんな持っている。
そんな現代だからこそ、映像や文章としてアップロードしていくことが重要なのではないかと考える。
そしてこのように同じような考えを持つ人間が増えてくれれば嬉しいな思うし、先人の教えはどんな教科書よりも尊いものであるから、余計なことは考えなくていいと示していきたいと考えているのだ。
まあここまでつらつらと文章を綴ってきたのだが、要するにドキュメンタリー映画を撮りたいのだ。
地元の神楽舞がどのような歴史を辿って現代に残ってきたのかということを紐解いていきたい。
全国には津々浦々大なり小なりの祭りごとはあると思う。その起源を知ること、辿ってきたプロセスを知ることは単純に面白いと思うし、発見はたくさんあると思う。そうなってくると地域との向き合い方が変わると思う。
それは地域に入って何かしようとする若者にも訴えたいことで、地域のことを知るという意味でも、祭りごとにフォーカスしてみるのも面白いのではないかと考えている。
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