見出し画像

信仰というもっとも愚かなる...


拝啓

あなたは四六時中、私のちっぽけな脳みそへ働きかけて、種々なる「記憶」や「声」にあやかりながら、私を思い煩わせようと試みられています。

ですが、はじめにこの文章におけるひとつの結論を述べてしまえば、そんな試みは、すべてなべておしなべて、ムダな抵抗でございます。


そう言われても、あなたもまた私のようにあきらめの悪い存在であることを知っています。さりながら、あきらめが悪いというその一点においてさえ、あなたが私に勝つことなど、永遠にありえません。

もしも残された時間をムダにしたくない、より可視の結果をと目論んでいるのならば、あなたに対して時に幼子のように、時に勇者のように立ち向かう、あなたよりもはるかに愚かにして非力な人間など――それなのにいつもいつでも敗走という大恥をあなたは全天の前でかきつづけているのです――はなから相手にしない方が効率的というものでしょう。


私は私の罪を知っているように、あなたの罪を知っています。

そうして、私は私の罪がひとつのこらず赦されて、永遠に覆われてしまったように、私はあなたの罪がひとつとして赦されることなく、もはや永遠に覆われることのないことをも知っています。

だから、この件について、もしもなにごとか訴えたいと願うのなら、私を見習って、神に向かって訴えてください。これこそ、この文章のもうひとつの結論だからです。


そもそもあなたには、「告発する者」という名前が与えられているではありませんか。

(あなたがどんなことを、どのように告発したいのか、私にはかそけき興味もありませんが)そんなあなたは、いつもいつでも、「誰にむかって」告発しているのですか?

人ですか――? 地上の国々ですか――?

余計なオセッカイですが、そのような人間的な、あまりに人間的なものへむかって、あるいは地上的な、あまりに地上的なものへむかって訴え出るから、あなたは失敗しつづけるのです。

しかし、オセッカイついでに言っておくと、それがあなたという存在の受けるべき報いなのです。告発にせよ、訴えにせよ、なんにせよ、もはや「あなたからのもの」は、永久に神によって聞かれることがないからです。もはや永久に神に聞かれることはない――それをあなた自身、誰よりもはっきりと知ってしまったがために、あなたは人にむかって訴えるしか、手立てがなくなってしまったのです。それがほかならぬ、あなたの敗北の歴史なのです。


それでもかつて、あなたが神の御前で告発している様子は、私がこの地上に生まれ落ちるはるか以前から、あなたが熟読し、誰よりも精通している「例の本」の中にも、とてもよく描かれています。

神にむかって訴えてきた経験のあるあなたならば、人ではなく、天使にでもなく、神にむかって訴えることだけが、「永遠に残る結果」につながる唯一の道であることも、経験として記憶しているはずです。

それゆえに、「例の本」の中で、神にむかって訴えているあなたの姿をば眺める時、ああ、この世の支配者とて、ひっきょう神の御前に進み出るしか方(ほう)がないのだ――というふうに思わされるわけです。

だからこそ、

私もまた、あなたの犯した「ある罪」について、人ではなく、天使にでもなく、神の御前に進み出て、訴えつづけてきました。これが、この文章の最大の目的と言って、いいかもしれません。


あなたはかつて、私の同胞の上に、原子爆弾という恐ろしい核兵器を落としました。

いかなる軍事施設の上にでもなく、生身の人間の上にこそ、それをしました。

私は、この罪について、あなたが永遠に赦されることのないことを知っています。

誰から赦されることがないのか、などと訊くならば――あなた自身、その答えを誰よりもよく知っているくせにどうして私なんかに訊ねるのでしょう――それはこのような文章を書いている、私からではありません。

あなたとわたしがもっともおそれている存在――そう、「神」からです。

信仰というもっとも愚かなる神の知恵によって、私はあなたの罪が永遠に「神から」赦されることのないことを、「知っている」のです。

それゆえに、永遠に神から赦されることのない、あなたのこの罪について、私はいかなる「責任ある知性」とも、対話の場を持つことなどありえません。

罪を赦す唯一の権限を持つ神が永遠に赦さないとした者をば、どうして虫けらのような私が赦すでしょうか。この世でもっとも憐れみ深い神が永遠に憐れみをかけないとした者をば、どうしてこの世でもっとも憐れみ深くない私が憐れみをかけるでしょうか。

あなたと、あなたが唆した者たちの中でかつて私の同胞の上に原子爆弾を落とした責任を負うすべての者とは、わたしの神によって「復讐」されることを、私は知っています。わたしの神が、わたしが命をかけて訴えたわたしの祈りをば聞き入れたことを、信仰というもっとも愚かな神の知恵によって、わたしの目で見、わたしの耳で聞き、すべてのことをわたしの心に留めて、知っているからです。

賢明なるあなたには自明のことですが、

わたしの神とは、イエス・キリストであり、イエスを死者の中から復活させた憐れみ深き父なる神であり、その父なる神からイエス・キリストの名によって遣わされた信仰というもっとも愚かな”霊”のことです。

これが、この文章において、イエス・キリストの名によってわたしが行う、わたしの信仰告白です。

と同時に、あなたに対する永遠の勝利宣言でもあります。

だから、この文章にあってもっとも愚かしく、そしてもっとも美しい部分なのです。


信仰というもっとも愚かなる神の知恵によって、私は、私が母の胎内にいた頃から、いや、それ以前のはるかなる原初の昔から、わたしがわたしの神によって知られ、選びわけれて、この時代のこの場所に生まれさせられたことを、知っています。それはたった今、私が行ったような、人ではなく、天使にでもなく、神にむけた「信仰告白」をこそ、私の全身全霊をして行わしめるためだったのです。

賢明にして力強いあなたには釈迦に説法ではありましょうが、信仰とは、神から人へ与えられる、神のもっとも愚かな知恵であり、神のもっとも弱き力のことです。そうでありながら、この地上の最大の賢者たるあなたよりも賢く、この地上の最強の支配者たるあなたよりも強いものなのです。

もう一度言いますが、

私はこのような「信仰告白」のためにこそ、この時代のこの国にあって、生み落とされたのです。

かつて私の同胞が、愛する祖国と家族と子孫のために空の彼方へ飛び立ったように、

そのような私の同胞たちのための、神の「憐れみ」を祈り求めるために、私が私の心を燃やすようになるために。


あなたはかつて、まるでソドムとゴモラを滅ぼした天の火のように、私の同胞たちの上に原子爆弾や焼夷弾を落としました。しかし、あなたはソドムとゴモラのようには、私の祖国を滅ぼすことはできませんでした。

それゆえに、エッサイの根からひとつの芽が萌えいでたように、あなたの凱歌のような炎火の中をくぐりぬけた私の先祖が生き残り、生きながらえて、守り抜いた一粒の種の中から、わたしは生まれ、今日、神の御前において勝利の凱歌を歌いあげたのです。

賢明すぎるあなたがあまりに賢明すぎる誤解をされないように、イエス・キリストの名によって言い加えておきますが、「私の先祖」とは、ヒロシマやナガサキで殺された同胞たちのことであり、己のたったひとつの命をもって空の彼方へ飛び去っていった勇者たちのことであります。この世のいかなる「教会」や「クリスチャン」たちのことでもなく、アブラハムの系図的子孫たる「ユダヤ民族」のことでもけっしてありません。


それゆえに、

かの日のことを、私は楽しみにしているのです。

その日には、信仰を立派に守り抜いた私が、再臨したイエス・キリストにも、憐れみ深き父なる神にも、顔と顔を合わせてあいまみえるように、

まるで咲き乱れる満開の桜のような、極めて良い神の国にあって、私は私の先祖たちともまた、再会するからです。

その時、

わたしたちは、どちらからともなく、たがいの頬に手をあてがい、涙をぬぐいあい、唇をかさねあうでしょう。唇をかさねると、また、万感の涙がほとばしり、おちていくでしょう。かさなりあったわたしたちの姿は、もはや永遠に引き離されることのない、さながら、ひとつがいの鳥のようでしょう。


そんな時には、

もはや、この地上にしがみついて、みにくく、きたなく、きたならしく生きながらえようとした「あなた」のことなど、どうして思い出すことがありましょうか。

わたしたちには永遠の命があるように、

あなたには永遠の裁きがあるばかりです。

そんなあなたにむけて、私から最後にたむけるべき言葉があるとすれば、いつもの私の、あの口癖ばかりでございます。


永遠にさようなら。
                                         敬具 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?