冷たいからだ ②
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だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。
――
私は別段、コムズカシイ話をしているわけではない。
たとえば、私の近所に棲んでいて、毎年冬を迎えると私が薪割りを手伝ったり、雪かきを手助けしたりする団塊の世代の老夫婦など、現代における「老いたるダビデ」として申し分ないほどのサンプルであると言える。
すなわち、彼らにあってあと数年、長くて十数年、私の隣地においてどのような生き様を続け、どのような死に様でそれを終えるものか格別興味も抱かないものだが、我が国の歴史の穢れたる世代の標準的典型として、「なにはのことも夢もまた夢」というふうに嘆き悲しみつつみまかっていかれたとしても、私にとっては徹頭徹尾タイクツを極めた四流なる人生劇の、当然の終幕だとしか思わされることのないであろう。
というのも、私の隣人に限らず、彼らのような後期高齢者と言葉を交わす度ごとに聞かされる老いの繰り言のひとつに、「薪棚に薪が無くなってしまうと、どうにも不安になる」というものがあり、
これは薪ストーブを所有する寒冷地の住人においては、およそ高齢者でなくとも共通する一般感情なのであるが、団塊の世代に属する彼らの場合は、”それ”が全生活の根幹にまで浸潤してしまった末期的症候までもが、傍から観察すればするほどに透けて見えてくるからである。
つまりは、薪棚に薪が無くなってしまうと不安だ、貯金通帳から残高が減っていくと不安だ、孫が大きくなっていくたび毎に余計に金がかかって大変だ、年々年金が少なくなるのと反比例して医療保険費が上がっていくのが恐ろしい――
そんな「明日への思い煩い」というやつにひねもす怯え、年々、自覚の有無を問わずに自ら増殖させたそれによって、心身を侵食されながら老後を営んでいる、
こういうさもしき人間の生き様が、とりもなおさず、「衣を何枚重ね着しても暖まらなかった老体」でなくて、なんであろうか。
あまつさえ、
かつて定年まで立派に勤め上げて、あとはできるだけ健やかに死んでいくだけの貯蓄もたくわえた――ネンキンもまだ貰えそうだし、年ごとにキナ臭くなりつつある世界情勢も、きっと自分たちの私生活をまで脅かすには至らない――願わくば、戦争でも動乱でも恐慌でも飢饉でも災害でも、私たちが死んでから起こってほしいものである――
こんな小市民的な、あまりに小市民的な卑しき願望たるものの、たとえ1/fゆらぎをもたらす薪ストーブの焔の前に暖めてられていようとも、「神を知らず、神からも知られていない」者の胸中にこそうずまくべき、自家中毒のような「死への恐れ」でなくして、いったいなんであろうか。
以前、『ギブオンの夢枕』や『友よ、我が霊とともに…』という文章にも綴ったことがあるが、昨今の政治経済を牛耳り続ける「団塊の世代」とか「ベビーブーマー」とかいう手合いどもとは、きっと我が国のみならず世界中の国々においても、まさにまさしく「禍殃」のような痴れ者の集合体にほかならずして、
よって、意識認識見当識の有無を問わずに、日夜吹きすさぶ「心の木枯らし」のために身も心も寒くてたまらなくなり、もはやいかなる夢も希望も見つめる手立てもなくなった「絶望の晩年」の足音におびえながら、それでもなお「なにはの夢」の面影をあきらめきれずに今日もまた、貪るように「国中から美しい処女」を探し出しては御側に仕えさせようとする、どこまでも下卑た、下品な、下劣な、「貪欲」の化身以外のなにものでもありはしないのである。
それでは、私は、我が無二の友の死に責任のあるこれら魑魅魍魎たちが心憎くてならないので、その個人的復讐心を満たさんがためにこそ、こんな文章をば書いているのだろうか。
けっしてそうではない。
むしろどうしてなおさらに、あたかも渇いた人に一杯の水を与えるような「憐れみ」をこそもって、私はここで思う存分に「兵どもの夢の跡」をばディスって差し上げようとしているまでであり、
もしも憐れみの無かったならば、死の棘のような「絶望」に打ち克つための「夢と希望」のひとつでも語ってやろうという、かそけき思いすら抱いたりしないものである。
どうぞ勝手に死んでください――と素通りしてしまえばいいものを、それをできずに立ち止まってしまったがために、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くすようにして、晩年のダビデや秀吉やの史話を持ち出してまでして、欲深きうつけどもの「冷たいからだ」をあげつらっている、
すべては、
ネンキンの受給額なんぞに赤くなったり青くなったりしている我が国のベビーブーマーなんかよりも、むしろむしろ、若年にあっても壮年にあっても、突として「人生の真冬」に否応なくあいまみえなければならなかったような、今は亡き我が友のような人々がいるのならば、
そのような人々の「冷たいからだ」をこそ熱らせるための、からし種ひと粒ほどの「内なる火種」でもいいから、どうか天から贈りとどけてあげてくださいというふうに、わたしの神イエス・キリストの父なる神にむかって祈り求めているからである。
それゆえに、
あらかじめはっきりと言っておくものだが、
もしもあなたが「冷たいからだ」に思い悩んでいるのならば、ぜひとも私たちの教会を訪ってみてください――
私たちの宗派教義神学のならわしに従って、私たちの授けるバプテスマを身に受けたならば、きっとあなたの「冷え」は取り除かれるでしょう――
さもなくば――
あなたはあなたの患難時代を生き延びることはけっして能わず、あなたはキリストの再臨の日にあって、先祖たちのように復活することもなければ、生き延びた私たちのように携挙されることもありません――
戦争と飢饉と災害の噂の絶えない世界を見渡してください、大患難時代は目と鼻の先まで迫っています、あなたは準備ができていますか、今こそまさにその時ではありませんか――
このような、歴然たる詐欺やイカサマや脅迫やをもって、人々の「冷たいからだ」からでも最後の一滴まで養分を吸い尽くしてやろうとする、この地上でもっとも罪深き集団どもによる「飴と鞭」とが、耳障りの良い言葉として心耳に響いて来るのならば、それこそもはや、「どうぞご勝手に」――。
合わせて二十億だか三十億だかの群れを成す、さながらレギオン(悪霊)のような今日びのユダヤ教キリスト教の手合いどもに限っては、私は毛髪一本ほどの「憐れみ」を覚えることがない――なぜとならば、わたしの神イエス・キリストにあってさえ「蛇よ、蝮の子らよ、どうしてお前たちが地獄の罰を…」というふうに、二千年以上も前に彼らに対して言い切っているからである。
それゆえに、
我が国の有史以来もっとも醜悪な世代の人間たちについてならば、せいぜい口腹の欲の権化だというふうにこき下ろすだけで気が済むけれども、
当代の「蛇」や「蝮の子ら」については、そんな生易しい罵詈雑言なんかではけっしてけっして事が済まされるものではない。
はっきりと言っておくが、私個人としては、彼らが生きようが死のうがどうだっていいのである――だって、この世のユダヤ教だのキリスト教だのに巣食っているバカの頂点を極めたバカの一人ひとりに対しては、私はすでに、永遠に足の塵を払い落としてしまっているのだから――
にもかかわらず、どうしたって「事が済まされない」とするならば、それは、例によって例のごとく、わたしの神イエス・キリストの父なる神の御心によるものであり、すなわち、「書け」と言われたまま否が応でも書かされているからなのである。
このように、
肉において忌み嫌っている団塊の世代以上に、霊の次元において激しい怒りを抱かされる偽りのユダヤ人たちについて、私個人の願いを述べるとするならば、どうか一日でも早く、十全に訣別したい。
我が国の穢れたる妖怪たちからは、もはや肉なる人としてさえ何一つ学ぶべき事などありはしないように、当世のユダヤ教キリスト教のありうる限りの宗派教義神学の類からなどなおさらにして、肉的にも霊的にも「水もパンももらってはならず、ひたすらに離れ去れ」と厳しく戒められているからである。
それゆえに、
ここまで言ってしまえば、「冷たいからだ」がどこからやって来て、何が人の体を冷たくし、かてて加えて、何物が人生の真冬をもたらす力なのかといった事柄も、ちょっと勘の良い人にならばすでに見えてしまったのではないだろうか。
が、かく言う私は医者でもなければ、当たり前だが、キリストであるはずがない、
よって、人々の「冷たいからだ」のための処方箋も持ち合わせていなければ、それを暖めてやれるような奇跡のひと言を口にすることができるわけでもない。
強いて言うならば、
「自分で食べて、自分で味わえ」――!
かく言う私もまた、かつては日がな一日「冷たいからだ」に苛まれ、来る日も来る日も肉的にも霊的にもイジメ抜かれ、まるで永遠に終わらないような絶望の朝と夜とに甘んじなければならなかった。
そして私は、まるで「すべてを持っていた」ような輝かしき青春の日々にからすでに、そのような「冷たいからだ」を認識し、思い悩んで来た。
であるからして、そのような「冷え」が、そう簡単に我が身から取り去られるものでないことを知っている。
今でこそ「心の灯火」だの「霊的炎」だなどと書いてみせることもできるようになったけれども、それをはっきりと見出し、なお追い求め続けるような心の形を獲得したのは、右も左も分からなかった若き日に「冷たいからだ」を自覚するようになってから、実に二十年以上の時を経た後のことであった。
もちろん、「二十年以上」というのは純粋な個人的記録にすぎずして、私なんかよりもずっとずっと素直で聡明で善良な「あなた」においては、二十年なんぞいうムダな時間を積み上げずとも済むかもしれない。
いずれにしても、存在と無の中間における「命」の認識とは、つまるところ、「冷たいからだ」がひとつのヒントとなるやもしれず、
それゆえに、「痛み」とか、「病」とか、「苦しみ」とか、「悲しみ」とか――そのような代物がいったいどこからやって来たのか、
そして、いったいいずこへと自分を運んでいこうとしているのか、
そんな自問自答こそを、「自分で食べて、自分で味わえ」。
それが、この神の言葉に込められた「思い」であるものと、信仰によってはっきりとここに書いておく。
その証拠としても、
「お前はどこにいるのか、そこで何をしているのか」
という神からの問いかけとは、いつの時代においても、深い思い悩みを抱え、見当識を失った人間に対してこそなされ続けて来たのだから。
つづく・・・
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