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かみおもふ、ゆえにわれあり


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神想う、ゆえに我あり
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彼の「ゲッセマネの祈り」を聞き及んでより、ことあるごとに、それについて考えさせられて来たものである。が、今この時ほど強く、思いを馳せたこともなかったかもしれない。それと同じぐらい、同じ彼による「十字架上の死」についても。

先に結論から述べてしまうが、これらはいずれも、すべて、現在進行形の話であるということだ。

すなわち、なにひとつとして、「すでに終わった話」などではありえない。

すくなくとも、これからわたしの語らんとする「ゲッセマネの祈り」と、「十字架の死」とについては、いずれも現在進行形の祈りであり、現在進行形の死でしかない。

そうして、このようなわたしの確信と確言とについて、この世界の三世にあって存在すること得た、いかなる偉人賢人傑物聖人の類によってなんと反論反駁されようとも、けっしてけっして主張を変えることも、曲げさせられることもない。

なぜとならば、いつもいつも言っているように、「現在進行形だ」と主張してやまないのは、わたしなんかではない――わたしの神、すなわち、イエス・キリストその人にほかならないからである。


それゆえに、

わたしがまだ年端も行かぬ世界の片隅の乳呑児であった頃から、巷の教会で「過去形の十字架」をば語られて、イエス様はあなたの罪のために死んでくださったのです、だからあなたの罪は赦されました、さぁ、私たちと一緒にアーメンしましょう、というふうにいくら誘われても、わたしは心の底の底で、ただひたぶるにシラケただけであった。

また、もしも一緒にアーメンしないならば、もしもアーメンもハレルヤも唱えることなく、私たちの教会のバプテスマを受けないのならば、バプテスマも受けず、賛美奉仕礼拝聖書朗読にも参加しないのならば――というふうに、いかにも安っぽい脅しをかけられるに至っては、拭いきれない不信と侮蔑しか、胸に抱かせられることがなかった。

あまつさえ、そのようげに血塗られた刃を潜ませた、数えきれないほどの宗派教義神学によるご高説にアーメンするような人間たちから、当たり前のごとく献金という名をした富と時と命をばせし取っている、そのなりふり構わぬふるまいの一々ついては、もはや、やるかたないような義憤しか、心に、魂に、霊に、身に、覚えることのなかったのである。


それゆえに、

ただそれゆえに、

彼のゲッセマネの祈りと、同じ彼の十字架の死とが、けっしてけっして、古典的な神話の類でもなければ、過去形の物語でもなく、たんに歴史上の史話のひとつでもないということを、わたしはわたし自身の身をもって知るのである。

なせとならば、

彼のゲッセマネの祈りとは、今、この時を生きのびようとしている、わたしの祈りそのものであり、

また、同じ彼の十字架の死とはまた、今、この時にあって死のうとしている、わたし自身の死でもあるからである。

が、はっきりと言っておくが、そう言うわたしは、何もこの文章を書き終えた後に自分の家の庭先に十字の形をした木製の細工でもこしらえて、その上に自らかかってみせようという、そんな馬鹿げた試みをばもくろんでいるというわけではない。

ただひたすらに、

ただひたすらに、このように言いたいだけである。

すなわち、

人は必ず死ぬ、

それが十字架上で叫び上げながらみまかるのか、畳の上で安らかに眠るように逝くのか、

どちらの死に様を選ぶにしても、わたしはただひたすらにして、わたしの神の名前を表している方をこそ、選び取り、決断するものであると。


それでは、

わたしの神の名前とは、なんであるのだろうか――。

それをはっきりと告白するためにこそ、まずもって、わたしはわたしの神の同じその名前によって、このように言うものである。

すなわち、

「憐れみのともし火」は、けっして消えはしない、

いつの時代の、どのような世界の、いかなる死の陰の谷のさいはてを歩かされようとも、けっしてけっして、わたしの胸の内から消えることもなければ、消されることもありはしない、

そして、

同じわたしは、その「憐れみのともし火」をこそ、わたしの神がけっしてこの地上にあって絶やさぬようにと、この時代のこの世界の片隅に、生を受けた者なのであると。

わたしは、わたし自身を含めた、誰かを憐れむために、憐れみの心をば与えられて、生を受けた。

それが、いつもいつも言っている、わたしが母の胎内に居たころよりイエスに知られ、キリストに選ばれ、キリスト・イエスの父なる神から愛されていたという言葉の、言意である。

わたしはわたし自身を含めた、自分の周りにいる誰かを憐れみ、慈しみ、親切にするためにこそ、生まれながらにして恵まれた憐れみの心が、さらに憐れみ深くなるようにと、今日ただいまに至るまで、種々なる苦難患難試練鍛錬の火の中をばくぐらされて来た。

そのようにして、有無も言わさないように、否も応もないように、鋳直され、造り変えられて来た。

それゆえに、

ただそれゆえに、

わたしは、わたしがわたしの周りにいる人間たちに比べて、より立派で、より有徳で、より聡明で、より強力で、より豊かで、より富栄えており、より優位な立場にあるからこそ、誰かを憐れもうというのでは、けっしてない。

むしろ、目に見えるところにおいては、このわたしとは、それらすべてとは正確に反対の様相を呈した存在でしかなく、より乏しく、より貧しく、より愚かで、より脆弱で、より無一文で、より裸で、より持たざる者でしかありえないはずである。

それでも、それでもなお、

いや、むしろそれゆえに、ただそれゆえにこそ、

わたしはわたしの選択と決断によって、誰かを憐れむという道を選び取り、決断するものなのである。


これが、

これこそが、

わたしがわたしの神の名前によって、今この時にあって、ゲッセマネにおいて祈り、祈ったからこそ力づけられ、生かされて、

また、今この時にあって、十字架に架かって死に、死んだからこそ憐れまれ、憐れまれたからこそ復活させられて、永遠に生かされた、いきさつなのである。

わたしのゲッセマネの祈りと、わたしの十字架の死とは、アブラハムの生まれる前から、各時代の人間の心に灯されて来た憐れみのともし火が、わたしの心にもまた宿っており、そして、その相手に憐れむべきいかなる合理的理由すら見いだせない時にこそ、まだ宿りつづけており、しかりしこうして、わたしの意思に抗うようにして、その炎をば煌々と燃え盛らせていた様子をば、この身をもって「見つめた」という、人生経験のことである。

だからわたしは、その時、その瞬間にあって、その方へむかって、終生、歩んで行くことを、決めたのである。

真っ暗な、真っ黒な、月も星も隠れたような黒暗暗たる闇の中で、どうしてひとりでに燃え盛るような、ともし火があるだろうか。それがどうして、わたしの魂が生まれながらにして慕い、恋焦がれ、追い求め、ついには命をかけてまで愛するようになった、さながら故国の花々のようなわたしの神の「想い」でないと、思わないでいられるだろうか。

だからわたしは、知っている。

噂に聞いていた神の名前なんかではなく、

この世に生まれ落ちる前から、母の胎内に居た頃から、いや、この世界が創生される、そのずっとずっと以前の始まりの時から、わたしの神の力の源が憐れみであり、わたしの神の名前が、憐れみ、憐れみ、憐れみであるということを。


それゆえに、ただそれゆえに

わたしはその方へむかって、歩いて行く。

わたしはただ、選んだだけである。

わたしはただ、自分の心で選び、自分の意志によって決めるようにと、言われただけである。

数多の言の葉の中から聞き分けて、聞き分けたからこそ聞き従って、わたしはその日、自分で選び、自分で決めたのである。

わたしは、この命の尽きるまで、憐れみのともし火の方へ向かって、歩いて行く、

その方へ向かって、ただどこまでも、どこまでも、歩いていく、と――。

それゆえに、

それゆえに、

たとえどんなに憎い相手であっても、その者に対して、まだわたしの心が憐れみを覚えるのならば、わたしは、その人を憐れむことを選ぶ。

どんなに許せない永遠の敵のような存在であっても、たとえその者のわたしからすべてを奪い去った者であろうとも、わたしは、その者の倒れた時には手を貸し、渇いた時には飲ませ、飢えた時には食べさせよう。

なぜとならば、わたしが憎み、ぜったいに許すことのできない者をば、なおをもって憐れむとしたら、それはほかでもない、わたしの神が、その者を憐れんでいるからだ。

これが、わたしと、わたしの神イエス・キリストの、今この時におけるゲッセマネの祈りであり、

また、

わたしの人生という、今なお書き綴られつづけている聖書における、十字架の死であり、復活なのである。



2024.4.1
無名の小説家

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